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【短編小説】シュレディンガーの猫は見ていた

瑛子と僕が結婚する前のある土曜の晩、僕らは瑛子の家で、クロスケ(つぶらな瞳のとってもかわいい黒猫)と一緒に過ごしていた。食事のあと、まったくのよもやま話をお酒を飲みながらするのがいつものことだった。
何の流れかはもう覚えていないけれど、歴史上で嫌いな人物の話になったんだ。瑛子はちょっと考えていたけれど、嫌悪感を湛えて吐き出したのは「シュレディンガーが大嫌い!あの女たらしのくず」
「シュレディンガー?えーと物理学者だっけ?」
「そう」
「女たらしなの?」
「よく知らないけど、浮名を流してたらしい」
「そうなんだ。でも色男ならほかにも…」
「そうじゃないのよ、猫よ」
「ああ、シュレディンガーの猫か」
 
僕の専門外であまり理解はしていないのだけど、たしかこんな話だったかなと思いだしていた。話というのは、箱の中に、猫、放射線物質、ガイガーカウンター接続した噴射機だかがはいってて、50%の確率で原子が放出されると、ガイガーカンターが感知し、噴射機から毒ガスが噴出されてしまう。
猫の安否は、箱を開けてみるまで分からない。たから、箱を開けるまで、猫の生死は重なった状態で併存し、箱を開けて人間が観測したときに生死の状態が確定する…とかいう話だったと思う。
量子力学の問題点を指摘する思考実験とかいうのだけれど、その重要性は僕には理解できてなかった。
 
瑛子は語気をつよめて
「毒ガスが出るかもしれない箱に、猫を入れるなんて考える奴はドくずだわ。カエルだって、バッタだって、ミミズだって同じよ。信じられない。電気がつく装置でも何も変わらないのに、わざわざ猫?!」
「ああ、たしかにそうだね。電気が点いているかいないかが併存してるでも同じ気がする」
「なんで、猫にする必要があるの?それはね、他人の気を引こうという女たらしの下種の発想だわ」
 
クロスケと暮らす瑛子が、猫の生死をかけた試行実験に嫌悪感を感じるのは当然だ。
「確かにやな感じだね。それでシュレディンガーが嫌いなの」
「もっと許せないことがあるの!」
「どこ?」
「いい、あいつは、箱を開けて人間が観測するまで状態が確定しないという。バカすぎて信じられない。猫が観測をすでに済ませてるのよ。僕はいきてるにゃ、とか死んだにゃとかもうすでに猫の観測で確定しているの」
「でも、死んだっていうのは自分でわかるのかな」
「いやそこじゃないから」(一瞬、引く瑛子)
「機械が動く音とかわかるしね」
(再び力をとりもどして)「そこよ。つまり、人間だけが観測者だって思ってるシュレディンガーは、俺以外のやつらは猫の生死の観測とかにしないとわからんだろってバカにしているわけ。もっというと、俺っていう観測者だけが確定できるとおもってるんだわ」
「そこはどうかわからないけど…」
「とにかく、猫は観測者の資格があるの。たとえばよ、箱の中に私が入る。毒ガスなんてまっぴらだから、その代わりに大好きな薔薇のフラグランスが噴射されるようにする。10分箱にいて、フラグランスもなしにいたら、私は絶対に不機嫌。でも、フラグランスがあったら、素敵な笑みの瑛子さんになるわけ」
「うん」
「いい、ぶっちょう面の瑛子さんと素敵な笑みの瑛子さんの二つがある。箱を開けたとき、クロスケはぶっちょう面ならソファーに行くし、笑みなら飛びついてくる。それはね、香りが広がる前にすぐにね。つまり、猫と人間をいれかえたって、猫は観測者なの」
「なるほどね。そんなこと考えて生きてるんだ」
「人間だけが、俺だけがっていうおっさんが偉そうにするのは本気でむかつくわ」
 
ふと見ると瑛子をクロスケが見上げていた。そして、にゃ~~~~と長く鳴いた。これは不満か不安の時の声だ。そう、クロスケは瑛子が飲みすぎるのも、そして、翌朝が遅くなるのも嫌いなんだ。
僕は立ち上がりながら
「水取ってくるね」というと、
瑛子は
「うん」と言いながらクロスケの頭を撫でた。
クロスケは僕が立ち上がったのを見送りながら撫でられている。
水を持ってくるとクロスケはソファにもどった。
僕も話につられて全く気が付かなかったのだけれど、瑛子はちょっと飲みすぎていた。
クロスケは瑛子の酔いをよく見ている優れた観測者だ。
シュレディンガーの猫がいたなら、きっと見てたんじゃないかな。
 

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