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【甲骨文字の書道史】文字はここから始まった


こんにちはcanaeです('ω')ノ

今日は、”文字の始まり 甲骨文字こうこつもじ甲骨文こうこつぶん)”についての記事です。
歴史の授業でなんとなく聞いたような、気がしませんか?

甲骨文字は、現在見ることの出来る最も古い文字資料です。
ここから”文字”は生まれたんですねぇ感慨深いぃ…(遠い目)

それではやっていきましょー


1、甲骨文字の発見

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甲骨文字は、しん時代1899年に中国の王懿栄オウイエイが薬として売られていた龍骨りゅうこつの表面に文字があるのを発見したことが始まりです。


王懿栄オウイエイ・・・1845年~1900年

龍骨りゅうこつ・・・牛の肩甲骨けんこうこつや亀の腹部面の甲羅こうら


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当時、王懿栄オウイエイの家には考古こうこ学者の劉鶚リュウガクが合宿していて、日頃から文字学もんじがくの研究を行っていました。


国立大学総長である王懿栄オウイエイ宅には、沢山の研究書物があり
劉鶚リュウガクとともに薬売りから龍骨りゅうこつを大量に集めて、甲骨文字の解明かいめいに励みます。


劉鶚リュウガク・・・1857~1909


その後、1903年に劉鶚リュウガクは初の甲骨文字資料である鉄雲蔵亀てつうんぞうきを刊行しました。


それに連なるように次々と、甲骨文字の研究書物が発表されます。

1904年 孫詒譲ソンイジョウ 契文挙例けいぶんきょれい
1910年 羅振玉ラシンギョク 殷墟貞卜文字考いんきょていぼくもんじこう
1912年 林泰輔はやしたいすけ 亀骨獣骨文字きこつじゅうこつもんじ



2、甲骨文字はいつのもの?



そんな、甲骨文字。
使用されていたのは、時がずっとさかのぼったいんの時代です。


殷時代は、中国最古の王朝おうちょうとされています。


その首都の遺構いこう殷墟いんきょ河南省安陽県小屯村かなんしょうあんようけんしょうとんそん)の発掘に参加していたのが、
甲骨文字の学問、甲骨学こうこつがくに一生を捧げた董作賓トウサクヒンでした。



董作賓トウサクヒンたちの長期に渡る発掘により、膨大な量の甲骨の採取、殷王の大墓などが明らかになり20世紀最大の考古収穫とたたえられています。


董作賓トウサクヒン・・・1895~1963


☞董作賓の研究成果



董作賓トウサクヒン
1931年に大亀四版考釈だいきしばんこうしゃく
1933年に甲骨文断代研究例こうこつぶんだんたいけんきゅうれいを発表しています。

その中では甲骨文の出土状況、甲骨に刻まれた文章の中の貞人ていじん(王室で占いを行った人物)の研究、また甲骨文字を5期に分けてその内容と書風しょふうの変化を指摘しています。



3、甲骨文字は何に使われていたの?


甲骨文字が書かれた甲骨こうこつは主に、占いに使用され
甲骨文字は神の心を表示する意図で書かれたとされています。

いん時代では、宗教が重んじられ王は現実の神としてあがめられていました。

王を讃える民の図

そこでは、貞人ていじんにより毎日のように占いが行われます。

占いの方法は、甲骨の表面に文字を刻し(=甲骨文字)、みを入れそこに木を差し込んで焼く、というシンプルなものでした。

卜兆の図

そして生じたヒビの形状によって、吉凶きっきょうや人々の生活に関わる全てを決定していたようです。それを、卜兆ぼくちょうと呼びます。

しかし現在では、どのヒビの形が吉で凶であったかは不明とされています。


4、まとめ



・甲骨文字は発見されるまで、かなり時間がかかった!
※実際に使われていたのは、殷時代。発見は、清時代。

殷時代は宗教が絶対権威けんい
吉凶や、人々の生活に関わる全ては占いで決定されていた。
甲骨文字の書かれた甲骨は占いに使われていた!

・甲骨文字の内容は神の心を表示する意図で記したもの!



今日は《文字の始まり、甲骨文字》についてでした('ω')ノ

こんな感じに歴史順で、代表的な古典作品や書体の記事を書いていきたいと思います。

素敵な1週間になりますように。それではまたね〜





canae




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