ラファエル・アルトゥニアンコーチが米国の市民権を獲得した時のインタビューです。

ラファエル・アルトゥニアンコーチが今年の夏に米国の市民権を獲得しました。その時の記事です。

元の記事はこちらです。

【スケーター達のグローバルチームから祝福を。ラファエル・アルトゥニアンは米国市民となった。】

ラファエル・アルトゥニアン、黒海の東海岸にあるジョージアという小さな国家で生まれ育ち、2000年代初旬から中旬頃にミシェル・クワンのコーチとして働いていた。クワンは彼の旅行ビザを手伝うために多くの時間を費やした。
数年間、米国に住んだだけだったが、アルトゥニアンはクワンを覚えている。彼女のゴールドの心と共に…国際大会で指導が出来ると確信を持てる、素晴らしい期間となったのだ。
「可笑しいんですよ。私は常に旅をするためにビザを取らなければなりませんでした。」
アルトゥニアンは最近思い出していた。「ミシェルはいつも、ある場所から別の場所へと行くために私を助けていました。彼女は出来る限り私を手伝っていた。そうでなければ、私は競技会へ行けなかったんです。」

クワンはアルトゥニアンの初めての、そして現在の生徒でもある。先月、この62歳の男性がロサンゼルス条約協定の施設で新しい米国市民となった、6000人以上の人々の内の1人になった時に、手を差し伸べた生徒だ。
アルトゥニアン…本当にラファ・スタイルで…最前列に座った。

「想像もつかないでしょう」と彼は最近の電話インタビューで言った。「とても特別でした。そして私は審査員の真ん前にいたのです。」

アルトゥニアンは1990年代後半に南カリフォルニアへと引っ越した。2000年には、そこで永久的に定住した。彼は数年前にグリーン・カードの手続きをやり始めた。彼が言うには住民となるよりも、それはずっと難しい事だった。それでも完全な米国人となる事を受け入れたのだ。永住権を獲得する…それは彼の考えの中に長い間あり続けた事だった。

「私は申し込む事を決めました。何故なら米国人になる準備が整ったからです。」と彼は言った。
「市民として、というのは、完全に違う感覚があります。もし市民ならば、この国で暮らす事において、全ての部分で参加するのです。以前は感じなかった事です。(グリーンカードがある事について)」

アルトゥニアンはソヴィエト連邦の子供として言う。彼は今まで一度も米国にやって来て、永久的に住む事を夢見た事は無かった。彼が初めて米国へ引っ越した時、レイク・アローヘッドへとスケートのレッスンのために通勤していた。彼の車で道に迷う恐怖により無力にさせられた事を、鮮明に覚えていると言う。
「私は公道から降りる事が怖かったんです。」彼は思い出して、思い出を笑った。「私は道に迷うんじゃないかと考えていたんです。ガソリンのタンクを満たんにしようとしました。それで私はレイク・アローヘッドとロサンゼルスの間に、公道から出ていく必要は無かったんです。逆戻りする必要も!もし私が公道から降りたら、私が行く道をまた探す事は出来ないと分かっていました。」

彼は当然、行動して、彼の道を見つけた。そしてこの過去15年は、彼を最もひっぱりだこのコーチの1人にした。米国人スケーターだけでなく、国際的なスケーターもだ。米国で働いたり指導したりする事を愛している最大の理由は、ここではスケーティングコーチが導くある種の仕事的生活だ、彼は言った。他の世界の腕の良いコーチ達とは全く違うのだと言う。

「米国人コーチ達は、彼らが求める色々なタイプのスケーター達と仕事が出来ます。良かったり、悪かったり、大人や子供…他の国ではそうは行きません。」と彼は説明した。
「有名コーチ達は大人や小さな子供たちとは仕事をしません。彼らは大抵、高いレベルのアスリートとだけ仕事をしています。私からすると、それは人生においても指導においても良い経験ではありません。」

彼は続けた。「私は皆と仕事をするのが好きです。勤勉に働く人々と仕事をします。私はコーチ達のチームを持っています。5人から7人で、私達は全員が共に働くのです。スケーター達に成長するチャンスや機会が持てるようにするためです。私は自分自身が有名コーチだとは見ていません…私はただ普通のコーチです。他の人達のように。」

しかしアルトゥニアンの元には数多くのスケーティング・セレブリティがいる。クワンも含めて…彼の永住権のセレモニーの数週間後に彼を訪ねた。生徒達はリンクでおめでとうと言ったり、又は彼に電話をした。

彼はローカルニュースにさえ登場した。
「想像できますか?私の生徒達の全員が私に言ったんです。"貴方をニュースで見ました!"と。彼らは大層気に入ったようでしたね。」と彼は言って、クスリと笑った。

アーヴァインのグレートパーク・アイスで、彼は過去の数カ月間に生徒達を指導していた。アルトゥニアンは国際的グループのスケーター達と仕事を続ける。米国のマライア・ベルとネイサン・チェン、チェコのミハル・ブレジナ、フランスのロマン・ポンサールと他にも沢山の生徒達が含まれる。
「私のリンクには多くの違う国出身者がいます。ですから(米国人になる事は)私にとって祝福のようなものでした。」と彼は言った。

アルトゥニアンが米国人の安定したスケーター達の成功が続く事を望む時には、彼は国際的な帽子をかぶったコーチとして前進すると言う。そして当然、彼のやり方でやる。ラファのやり方だ。
「グレートパーク・アイスで今私がやっている事は、米国の多くのコーチとは違ったやり方をしています。」彼は新しい施設の事を話した。2019年にオープンしたばかりだ。
「スクールなんです。アカデミーです。スケーター達は毎日、私と一緒の授業があります。彼らは宿題があり、その後戻って来て、彼らが割り当てられた事に取り組みます。私はそれに更なる効果的アプローチを見出します。何故なら…特に子供たちには…この方法でもっと責任を持つからです。」

「実はネイサンの質問を沢山受けました。彼がイェール大学にいながら、どのようにとても上手く滑る事が出来るのかと。コーチから遠く離れていながら。」と彼は言った。
「でもこの務めに関しては…彼が自分自身で作業をしている事なのです。彼は、私が彼がやる必要があるとしている事を理解するんです。たった一言だけでも。」

2度の世界チャンピオンのチェンについて、ネイサンは2回生の年にイェール大学へ戻る事を、アルトゥニアンは確認した。でも彼は来たるシーズンに関して、前方にある挑戦を見ている。
「私はこの夏にネイサンを見ていました。彼が本当に恋しいです。」と彼は言った。
「彼は少なくとも五輪シーズン(2022年)の1年前には、1年間全て私と一緒に取り組むと約束しました。私は来たるシーズンは彼にとって最も厳しくなるだろうと思います。何故なら彼は既に1年コーチ無しでやりました。ですから今年は更に厳しくなると思います。去年は私との8年間のトレーニングの後に、初めて居なくなった年となりました。これは彼にとって体型を維持する事が厳しくなると思います。でも、どうなるでしょうか。私達はベストを尽くしたいです…他に選択肢は無いのです。」

だがアルトゥニアンが米国人になるという選択肢はあった。けれども、驚きは無いが、リンクサイドの彼は変わらないと言った。彼は今でもラファなのだ。彼はたとえ何があっても各スケーター達にベストを要求する。彼が背中にどのジャケットを羽織っていようとも。

「私は既に国際人だったのです。」と彼は言った。「米国人として、リンクの外でも責任があります。はい。でもリンクでは、私は常にスケーター達に責任があったのです。彼らが誰であろうと関係ありません。過去10年間、私は米国が3つのメダルを勝ち取る事を助けてきました(世界選手権で)。私は出来るだけベストを尽くしました。私は自分が住んでいる場所への真価を見せたかったのです。はい、私は自分が住む国のためにベストを尽くしたいです。でも私の責任感はリンクの側にあります。私はコーチなのです。」

ただの米国人コーチである必要性はないが、それでも今は米国人のコーチだ。おめでとう、ラファ。そして他には何も変わらないでいて下さいね。



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