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既存の差別が差別を再拡大すること シャルコーの臨床講義

「シャルコーの臨床講義」という絵画を最近知りました。これは神経学の父と言われるシャルコー医師が、実際のヒステリー患者さんを医学生の教育の場に連れてきて診断学の講義を行う様子を描いたものだそうだ。ヒステリーというのは今では使われない病名で、現在は変換症/解離性障害などと呼ばれることが多い。病気というよりは、単に状態と言ったほうが適切だろう。

名前自体は耳慣れないが、大きなストレスで多重人格になったり記憶を失ったというエピソードや、声が出なくなったという話は聞いたことがあると思う。心理的ダメージから心を守る無意識の緊急システムと考えられ、人格を解離させて一時的にダメージを逃れたり、心のダメージを身体症状に変換したものと考えられているために解離とか変換と呼ばれている。

この絵画では全ての医師・医学生が男性という中、患者さんだけが女性である。これはもっぱらヒステリーは女性の病気だったからで、昔の医師たちはこれを子宮による病気だと考えたほどだ。(ヒステリーは、子宮を意味するhyster-に由来する。)これは長い歴史の中で、女性たちのストレスがいかに凄まじかったかを示していると言っていいと思う。事実、なお社会には多くの不平等と理不尽が存在するものの、解離症/転換症の発症割合は、現在では男女間でほとんど差がないといわれている。

では何が当時の女性たちにそれほどまでに大きなストレスを与え、かつそれを無意識下に抑圧せねばならない状況に追いやったのか。中世ヨーロッパといえば魔女裁判が有名だが、あらゆる権利の面で女性の地位が後退した時代であったといわれている。教育、職業、土地相続や財産の管理の権利に至るまで女性は権利を剥奪された。もちろん医師も女性が締め出された職業の一つである。17〜8世紀の工業化で家族内生産が消滅すると男女の賃金格差はさらに拡大し、生活能力と市民権を奪われた女性たちの状況はさらにひどいものになっていく。(※1)

この絵画が描かれる19世紀は、こうした時代を受け、女性の地位向上を目指す運動が徐々にではあるが拡大していく時代だ。この時代の女性たちが置かれていた、家庭制度という名の隷属状態がいかにひどいものであったかは、有名な当時の小説「テレーズ・デスケルウ」を読むとよくわかる。(※2,3) 生きながら一切の権利を剥奪されて権利の上で“死ぬ”ことになるから、“民事死” とも表現されるほどだ。

André Brouillet シャルコーの臨床講義

私はこの絵を見た時、なんてグロテスクな絵だろうと思った。女性たちを抑圧している男性達が、自分達が生み出した「病人」を、そうとも知らずに観察し分析する。男性だけに許された学問的な特権を振りかざして興味深げに眺め、傲慢にもその病因を推測してみせる。その推論能力や知的好奇心や冷静な知性は自分達に固有なものと信じて疑わず、感情的で非理知的で奇妙な存在である女性が起こす不思議な病態を診断し治療しようとするのだ。

私が恐ろしいのは、この既に存在する不平等が、それをさらに再拡大する方向に作用することである。既存の仕組みが女性に教育を許さないのに、彼女らの知識や思考能力が低いことはその結果ではなく原因とされてしまう。相続権や参政権や平等な労働の権利を奪って家庭に閉じ込める制度を作っておきながら、女性は働かず政治の話もわからない馬鹿だということにされる。そして抑圧から精神疾患を発症すれば、やっぱり女性は感情的で非理性的だというステレオタイプを強化されるのだ。突破口がない。そして既存の差別が差別を再拡大する構図は、今なお社会のあらゆる所で起こっている。

*中近世のことを書いたので(シス)男女の対立的な書き方になってしまいましたが、そこを煽る意図はないです。何かを知ることと、そのことで分断を生むことはしばしば同時に起こる気がします。分断を生むのではなく分断を超えていける、そんな言葉を模索したいと常々思っていますが未熟をお許しください


(※1) アンドレ・ミシェル「フェミニズムの世界史」白水社

(※2)上記の書にも登場する活動家フローラ・トリスタンを描いた小説がある。
バルガス・リョサ「楽園への道」。ちなみにフローラは画家ゴーギャンの祖母(!)。19世紀のヨーロッパで婚姻制度から逃れ、虐げられた女性と労働者の地位のために活動した。

(※3)モーリアック「テレーズ・デスケルウ」遠藤周作訳 講談社
現代の日本人キリスト教作家である遠藤周作が翻訳したものが講談社から出版されている。遠藤周作は舞台となったフランスの奥地に一人旅を強行するほどテレーズに取り憑かれていたらしい。ちなみに映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』では三島も本作に言及する場面があり、少なくない作家に影響を与えた作品であることが窺える。

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