見出し画像

作品に対する好きは全肯定ではなくて。

本でも音楽でも映画でも漫画でもゲームでも、好きな作品に対する「好き」は全肯定ではないんだよな、とよくおもう。

誰かと話をしていてわたしが本が好きなことが知れると、「おすすめの本はある?」と聞いてくれることがある。そのたびに答えに窮し、たいていは何も言えないのは、好きは全肯定ではない、という前提が相手と共有できていないからだと最近思う。

好きな本を聞かれたら、高橋和巳の悲の器とか、村上龍のコインロッカーベイビーズとか、大岡昇平の野火とかを真っ先に言いたい。でもそれらを読んでくれたとして、作品に流れる思想や登場人物の台詞、価値観、作品の雰囲気やジャンルといった、作品の要素を通して相手が過剰に私を想像するのは嫌なのだ。

好きな作品でも、その全てを肯っているわけではない。だから、この前提を共有していない相手に本をすすめるのは、本を介して自分を誤解されたり、過剰に本の内容と関連づけられて内面を詮索される気がして居心地が悪く、勧めるのをつい躊躇ってしまう。めんどくさ…と思われるだろうが、そもそもそんな器用に会話ができる人間だったらきっと私は本なんて読んでない。

たとえば、私にとって少年少女漫画は肯えない価値観を前提に構成されていることが多いし、現代より前の小説や古典的名作の多くは男性中心の視線や世界観で構築されたものがほとんどだ。

男性の側に生活能力がないくせに、彼を支えるために主婦になっていく(所帯じみていく)女性に対して男性が抱く身勝手な憂鬱や家庭生活への倦怠を勿体ぶって書いていたり、男性を家に縛りたい女性と自由を求める男性の本質的な(かの如く描かれる)相入れなさだとか、家の些事に一喜一憂する女性への、より“高尚な”思索に耽る男性からの軽蔑を文学的苦悩として描いた小説の名作は数多い。

男を必要とせず自立した女性が必ずと言っていいほど最後には不幸や孤独にさせられたり、自由で自立した生活、仕事や生き甲斐を手放さないために恋愛や家庭を持つ幸福(そもそも家庭を持つことがこれらの観点からみて幸福ではない)を諦めなくてはならなかったり。
男性の身勝手がそれをさも高尚な葛藤かのごとく、女性を完全に無視した形で語られる。あるいは単に、舞台の時代や設定を考慮しても不自然なくらいに物語に男性しか登場しなかったりする。

これらの近代文学の古典における男性中心の世界観や女性蔑視は、思想や価値観というよりもはや作品のデフォルトの仕様のように組み込まれている。

それでも私はそれらの中に好きな漫画があるし、小説の古典が好きだし、内容を貫く価値観に共感できなくてもその一冊に救われたり、その中の一文に心が震えたりする。

だから私は、好きな作品の部分で自分を判断されたくない。同じように、その人が読む本や好きな音楽で相手を即断したくないなと思う。文章や歌詞とその人を結びつけて内面を過剰に類推するのは(直感的にしそうになる時もありながらそれに逆らってでも)抑制したいと思う。私はマッチョな価値観は苦手だけど村上龍の小説が好きだ。魅力的な自立した女性が作中で不要なほど不幸になっても開高健の小説に救われた。私はきっと本がなければ生きてこれなかったし、今の自分にはならなかった。

だからそんな前置きを置きつつ、こんど一時うつで家からも出られなかった自分に少しずつ力を注いでくれた小説を、誰かの力になればと願いつつおすすめする記事を書いてみようかなと思っている。またよろしければ、あなたを形作った、あるいはぶっ壊して息を吹き返させた、そんな本や音楽があったらぜひ私にコメントで教えてください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?