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『グリーンランド ──地球最後の2日間──』と、もっとも魅惑的なジャンルとしてのディザスター映画

地球が破滅する映画が大好き

個人的に、いちばん好きな映画ジャンルはディザスター(災害映画)です。地球が破滅する映画ほど恍惚を与えてくれるものはなく、あらすじなどどうでもいい、地球さえ滅亡してくれれば満足だと思うようになりました。地球が壊れて世界が終わりそうになれば、それでいいのです。プロットの粗さを指摘される作品、たとえば『2012』(2012)のようなディザスター映画であっても、私は何の不満もなく楽しめてしまうのですが、それは「ああ、遂にこの世界が終わる」という終わりの感覚がスクリーンに漂うだけで、私の欲求がほぼ満たされてしまうからです。

こうしたジャンルへの偏愛は、ディザスター映画の質を客観的に判断する上では邪魔になってしまうような気がしますが、現在公開中の『グリーンランド ──地球最後の2日間──』について考えていきましょう。主人公ジョン(ジェラルド・バトラー)は建築技師で、高層ビルの建設を専門としています。仕事は有能ですが、妻(モリーナ・バッカリン)との関係はうまく行っていない様子。ある日、巨大彗星のかけらが地球へ落下し、あたりは騒然となりますが、どうやらこのかけらはひとつだけではなく次々に降ってきて、最終的には地球全体を破滅させてしまうものだと判明しました。その時主人公の携帯に連絡が入ります。彼は政府から「選別された」との知らせで、軍の基地に行けばシェルターに入れるとの伝達でした。主人公は妻と息子(ロジャー・デイル・フロイド)を連れて基地へと向かいますが、そこには幾多の困難が待ちかまえていました。

いちばん怖いのは人間だった

映画のイメージとしては、『宇宙戦争』(2005)でトム・クルーズとふたりの子どもが車で逃げる一連のくだりを再構築したような展開です。直接的なディザスター(隕石衝突)は冒頭とラストに集中しており、物語の中心となるのは、逃げまどう一家と、彼らが危機下でむきだしになる人間の本性に直面する恐怖の展開です。「実はいちばん怖いのは人間だった」パターンには独特のヤダ味があり、ディザスター映画に欠かせない調味料です。個人的には、CGを多用して派手に地球を破壊するエメリッヒ式が好きですが、『メランコリア』(2011)のような、「概念としての地球滅亡」を物語の最後に配置しつつ、日常を描くタイプの作品にも惹かれます。いずれの場合も、世界が終わることはあらかじめ決まっているので楽しいのです。

劇中、はっとする場面は多々ありました。たとえば家に帰ってきた主人公が、玄関脇に置きっぱなしになっていた子どものキックボードを拾うシーン。これは主人公にまだ幼い子どもがいることを示す説明的な描写ですが、あらすじと直接には関係のないこの動作に、主人公の生活が見えてくるし、心地よいリアリティをもたらしていました。また、主人公の妻が着用する腕のバンド(シェルターへ入場できる目印)を奪おうとする暴力的な男性を、複雑な表情で眺める、その男性の妻もすばらしい。自分の夫がいきなり暴発して女性に暴力をふるい出し、本当はとめるべきなのだけれど、怖くて萎縮してしまっている女性の様子がありありと描かれます。こうした場面がもつ人間くささ、真に迫る感覚が印象に残りました。

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終わったようで意外にしぶとい世界

ディザスター映画のほとんどがそうであるように、本作においてもまた、世界は滅亡せずに終わります(これはネタバレではなく、一定の予算を組まれたディザスター映画とはそのようなものなのです)。ブロックバスターのディザスター映画ほど、すんでのところで滅亡をまぬがれ、世界の再建へ向けて進んでいきます。本当に世界が滅んでしまう映画を、人びとは好まないため、興行収入を得るためには世界が持ちこたえる必要があるのです。「壊れそうだったけど、結果大丈夫だった」というのが、ヒット作の条件となります。そうでなければ、気持ちよく映画館を出られません。

ディザスター映画において生き残った人びとは、いわば「終わりの後」を生き始めようとするわけで、これは矛盾なのではないかと感じることがあります。終わりというのは、すべての終わりではないのか。なぜ終わった後の世界が存在しているのか。一方、『メランコリア』のラストシーンにおいて、明示されてはいませんが、世界は本当に滅びたと思います。それは『メランコリア』が純文学であり、エメリッヒ作品はエンタメだからですが、エンタメ的ディザスター映画を支持する者として、「終わりの後」という都合のいいエンディングをどう解釈すればいいのかについては、いずれもっと深く考えてみたいと思っています。

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