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不純な読書

たぶん本が好きだと思うのだが

いままであまり深く考えずに「本を読むのが好き」と言ってきたが、これは事実だろうか。本に接していて、どのような瞬間にもっとも喜びを感じるのか、自分なりに考え直してみたのである。いま私は、1日に少なくとも2時間は本を読んでいるので、たぶん読書が好きなのだと思う。毎日せっせと読んではいるものの、しかし最近どうも「本を読むのが好き」という前提が怪しい気がしてきたのである。私はたくさんの本を読みたい欲求が強いのだが、これは1冊の本を大切に読む態度と相反するのではないか。私はとにかく、さまざまなタイプの本を次々と、ハチャメチャな速度で読みたいのである。

そのため、本に接していていちばん嬉しいのは「ある本を読み終えて、次に何の本を読もうかと考えている時間」である。次にどんな本を読んでもいい、なぜならこの本は読み終えたのだから──。目の前に無限の扉が開いているような、この感覚。本を読むという行為の全体を通して考えても、最後のページまで到達した瞬間がもっとも心地よいし、深い満足が得られる。読書している瞬間も楽しいのだが、読了の快感は格別なのである。そう考えると、私は読書家としての自分の態度にあまり自信がない。なぜなら、読了の満足感をつぶさに観察したとして、そこに「もうこの本を読まなくていい」という感情が含まれていないかと考えると、たぶん多少は含まれているし、私はこの本から逃げたかったのか、早くこの本との関係を終わらせたかったのかと疑ってしまうためだ。

早く次の本を読みたいという欲求

私は本に対してとにかく目移りしてしまう。小説を読んでいると、人文系が読みたくなるし、歴史研究を読んでいる途中で、無性に映画論が読みたくなるといった具合だ。決していま読んでいる本がつまらないわけではない。いい本を読めば心は大いに揺さぶられるのだが、それはそれとして、次の本、違うジャンルが読みたいとそればかり考えてしまうのである。休日を読書にあてて3冊読めたりすると、内容はともあれその結果に満足する部分がある。読むべき本が大量に待機しており、次に読む本のことばかりを考えてしまうのだ。ときには「私の脳が異様に進化して、100冊の本をいっぺんに読めるようになったら最高なのに」などと、あり得ない夢想にふけったりもする。

つまり私は「この本を読み終えた後に手に取る、次の本」のイメージに取りつかれており、いつか読むであろう「究極の1冊」について夢想しながら、いま手元にある本を(いわば仕方なく、否応なしに)めくっていることにはならないだろうか。もう読み始めてしまったのだから、読み切る以外に選択肢はないと観念しているようなところが、私にはある。だからこそ、いま手元にある本をてきぱきと読み終えなくてはならない。ある本を読みながら、同時に、この本から早く逃げたいと考えているのは、いかにも矛盾した態度だ。早く次の本を読みたいという欲求が、読書を支えるエネルギーになっている状態は、少し不純ではないかと思うのである。次の本に取りかかれるという、奮い立つような期待。私はこの「期待の感覚」がいちばん好きであり、なにより「次の本」が読みたい人間なのであった。

とにかく読了せよ

なぜ私はこれほどに「ひとまず最後まで読み切りたい」「そして次の本を読みたい」と考えるようになったのか。ここには私の好きな海外文学というジャンルが関係しているようにも思うのだ。海外文学は、たとえ意味がわからなくとも、まずは読むことが重要なジャンルである。「本の内容がわからなくたって、そんなの当たり前じゃないか。読めない本なんかたくさんある。気にするな」という鷹揚な姿勢が、海外文学にはある。かつて『戦争と平和』を読み終えたとき、私は物語に感動したのか、こんなに長い小説を最後まで投げ出さずに読み通した自分に感動したのかよくわからなかった。『ユリシーズ』や『重力の虹』を読み終えたとき、内容はほとんど理解できなかったが、ひとまず最後まで読んだというだけで大いに満足できた。また『白鯨』のように、鯨を追うのかなと思ったら全然追わないで、鯨の豆知識が延々披露されるみたいな小説を、それでもがまんして読むのに価値があるというのも、海外文学から学んだことだ。

『白鯨』の「鯨を追う場面だけをダイジェストにまとめた、よりぬき版」があれば、たしかに相当おもしろく読めるはすだが、歴史に残る名作にはならなかったと思う。それ以外の部分にこそ『白鯨』が総合小説的であり、名作であるゆえんが隠されている。そして「それ以外の部分」が多少退屈でも、読み通すしかないのである。映画『カメレオンマン』(1983)では、読んでいない『白鯨』を「読了した」と周囲に偽ったことから自己が分裂していく主人公が描かれていたし、映画『サムサッカー』(2005)では、向精神薬の力を借りて『白鯨』を1日で読了する少年が登場する。ここから判断できるのは、アメリカ人は『白鯨』の長大さに怖れをなし、ある者は読んだと嘘をついたり、別の者は薬物の力を使って最後まで読み通したりするということだ。つまり『白鯨』とは、長い小説を読み終える困難さの象徴なのである。なかなか鯨と戦ってくれない小説を、歯をくいしばってでも読了する。私の「とにかく読み切るべし」「読了したら次の本を読め」という考え方は、海外文学で養われた可能性が高い。

私は本を読んでいない時間が好きなのか

さきほど私は、ある本を読み終え、次の本へ取りかかるまでの空白の時間がもっとも好きだと述べたが、これは実際のところ「本を読んでいない時間」のことである。本を読むのが好きといいながら、いちばん好きなのは、本と本のあいだにある小休止の時間、本を読んでいない時間だと、あるとき自分で気づいたのである。私は読書に倦んでいるのだろうか。ならばいっそのこと本を読むのを止めて、おもしろそうな本を買ってひたすらに書架に並べ、その背表紙をうっとりとなでながら「これはきっといい本だろう」と想像するだけでも同じではないか、と思うことがたまにある。もしそうできたら、未来への期待のみが永続するのではないか。なにしろ私は「本を読んでいない時間」「読んでいない本について考える時間」がいちばん好きだと分かっているのだから。

しかし同時に、新しい本の表紙を開いて、最初の行にいかなる言葉が書かれてあるかを見てみたいという欲求もまた強く、どうしてもそのやっかいな誘惑に抗うことができない。この本が自分にとっての究極の1冊なのではないか、という可能性に賭けたくなるのだ。たしかに私も未読の本を積み上げてしまうのだが、同時に、全く本を開かないことでいることも難しい。書架に並べるだけではどうしても満足できないのだ。そして私は性懲りもなく新しい本を読み始め、夢中でページを繰りながら、「ああ、早く違う本を読みたい」と愚かなことを考えてしまうのである。

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