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『偶然と想像』と、人生に一度くらいは起こるかもしれないできごと

※内容に触れていますので、未見の方はご注意ください

エリック・ロメールへのオマージュ

濱口竜介監督の新作『偶然と想像』は、3つの短編作品で構成されるオムニバス映画です。それぞれの短編に別のキャラクターが登場する話で、エピソードごとの関連性はありませんが、どの話も「偶然」というテーマで結びついています。本作の、主に屋内で続いていく会話劇というスタイルは、仏監督エリック・ロメールの作風、わけても連作映画「6つの教訓話」シリーズ(1962~1972)を意識したものだと思われます(劇場用パンフレット内でも、ロメールに関する話題が出ています)。会話劇はどうしても登場人物に動きのない撮影になってしまうため、観客を選ぶ面があります。実際、いま日本でロメール風の作品を撮るという企画を出しても、なかなか通らないような気がしますが、海外での映画賞を受賞するなど波に乗っている濱口監督だからこそOKが出た、挑戦的な作品なのではと予想します。観客の反応も非常によく、濱口監督はロメールのスタイルを自身のものにしていると感じました。

どの短編も、日常生活ではなかなか起こらない状況、とはいえ人生で一度か二度ならあり得るかもしれない特異なシチュエーションを描いています。その設定の加減が絶妙で、つい引き込まれてしまいました。1作目「魔法(よりもっと不確か)」は、芽衣子(古川琴音)とつぐみ(玄理)というふたりの女性の会話から始まります。親友であるつぐみがいま恋愛感情を抱いている相手が、自分の元恋人である和明(中島歩)だと気づいた芽衣子。何という偶然でしょうか。芽衣子は、親友の意中の相手が自分の元恋人だという事実を口にするべきか、黙っているべきか、揺れています。つぐみの話を聞いた芽衣子は、勢いあまって和明の元を訪ねるのですが、彼らの気まずく後味の悪い会話ときたらどうでしょう。そのとげとげしさ、居心地の悪さは、いま思い出しても背筋がぞっとしてしまうほどです。

緊張感の高まるシーン

決定的瞬間の目撃

この短編でもっとも強烈なのは、物語のクライマックスで芽衣子、つぐみ、和明の三人が喫茶店の同じテーブルを囲んだ場面です。芽衣子はついに「和明は自分の元恋人であり、いまだに未練を抱いている」と宣言し、和明に対して「自分かつぐみかどちらかを選べ」と迫ります。耐えられなくなったつぐみが喫茶店を出ていき、その後を追っていく和明。ひとり喫茶店のテーブルに残された芽衣子が、自分のやった失敗の大きさに耐えられなくなり、思わず両手で顔をおおった瞬間、カメラが途方もない勢いで芽衣子にズームアップするのです。この激しいクラッシュズームはいったい何事でしょうか。思わず「これが映画だ」と叫んでしまいそうな、みごとな演出です。ほとんど動きのない静かな会話劇を突き破るような、このズームの破壊力に圧倒されてしまいました。

2作目「扉は開けたままで」は、小説家として賞を受賞した大学教授の瀬川(渋川清彦)と、その生徒である奈緒(森郁月)の会話が中心となります。この2作目が、劇場の観客がもっとも湧き、笑いを誘った作品でした。作品ごとのバランスとして、コメディ的な要素を中盤に挟む意図があったのでしょうが、会話が進むほどに笑いも高まっていき、監督の目論みは成功していたと思います。無愛想で堅い雰囲気の男性が、いったん会話してみれば意外なほど脆く弱い、というのもユニークですし、その後に発生してしまう、悔やんでも悔やみきれない失敗もまた記憶に残ります。「魔法(よりもっと不確か)」における登場人物の失敗にも激烈なものがありましたが、「扉は開けたままで」におけるメールの誤送信も、観客席から「ああ……」と声が漏れてしまうほどでした。

意外におもしろいおじさん

女性同士の連帯

3作目「もう一度」は、生まれ故郷に戻った女性、夏子(占部房子)が主人公です。おそらく三十代後半から四十代だと思われる彼女は同窓会に出席するために帰省したのでした。同窓会を終え、夏子は東京へ戻ろうと駅へ向かいますが、そこでかつての同級生あや(河井青葉)とすれ違います。立ち話もなんだからと、あやの家へ向かった夏子ですが、家に着いてしばらく会話しているうちに、話の辻褄が合わなくなってきます。実はお互いが同級生だというのは両者の思い違いであり、卒業した高校も違う、全く赤の他人だったと判明するのです。見ず知らずの人の家に上がって、人違いに気づかないまま会話を続けていた主人公。しかし、どこか通じ合うものを感じたふたりは、そのまま会話を続けていくのでした。

実際にこのような状況があるだろうか、あるいは人生で一度ぐらいはひょっとしたら……という気持ちでスクリーンを見つめている観客ですが、すばらしいのは、このふたりがやがて精神的に連帯していく、というプロセスです。これが男性同士であれば、お互いが連帯することは難しいような気がします。どう距離感を取っていいのかわからず、あわてて家を出てしまいそうです。こうしたきっかけでも連帯できるのだ、という展開に胸が躍りました。「不満はないが、時間にゆっくり殺されていく」という不安もまた、同年代の女性同士が共有できるリアリティがある言葉でしょう。どの作品にも人間関係の妙味がつまっており、いい映画を見たと感じながら映画館を後にしました。多くの観客が同じ気持ちを味わっていたように思います。

【追記:ロメールについて】
私自身、数ヶ月前に名画座で『モード家の一夜』(1969)と『クレールの膝』(1970)を見直したところでしたが、ロメールの会話劇はかなり実験的な作風だと感じました。ふたりの人物が椅子に座ったり、ベッドに横たわった状態で会話するのを、時間をかけて見せていく。たまにカメラが切り替わりますが、基本的に画面がまったく動かない、スクリーンで何も運動が起こらない、というのは、長時間見続けるとなかなかしんどいものがあります。映画において、対象は馬でも列車でもいいのですが、「何か動いているものを撮る」のが基本であり、ほとんど動きのない画面で延々と会話が繰り広げられるスタイルは、見通すのに一定の忍耐が要るものです。今回、短編オムニバス形式にしたのも、観客の集中力が持つ時間を見きわめての判断だったのではないかと予想しました。ただし劇場の観客はとても反応がよく、大きく笑いが起こっており、監督の意図した緊張感の持続は達成されていたという印象です。

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