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メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』(東京創元社)

インスピレーションの源泉

1818年出版の小説『フランケンシュタイン』は、その後の映画化で広く知られるようになる物語の原作である。「人間の手による生命創造」という斬新な着想は、その後のSFジャンルにおけるアイデアやインスピレーションの源となった。わけても「人間が、みずから作り出した生命によって返り討ちにあい、命を落とす」というプロットは、現在まで繰り返し引用される定番である。非常に有名ではあるものの、実際に手に取った読者は少ないタイプの小説かと思う。あと書きによれば、欧米でも実際に原作を読む読者は少ないのだという。よく知られた新書、廣野由美子『批評理論入門 「フランケンシュタイン」解剖講義』(中公新書)で取り上げられたことで記憶されている方も多いだろう。

ほとんどの読者はジェイムズ・ホエールの映画から入ると思うのだが、小説を読んでみて驚くのは、「怪物」がきわめて饒舌なことである(これもよく言われることなので、ご存知の方も多いかとは思うが、一応説明しておくと「フランケンシュタイン」とは怪物を作った男性の名前であり、怪物の名前ではない。怪物には名前がなく、単に「怪物」と呼ばれている)。怪物は自分の置かれた状況を正確に把握し、どのような苦悩を抱えているのかを主人公に順序立てて説明するのだった。フランシス・コッポラによる映画化(『フランケンシュタイン』1994)のような例外はあれど、映画化された作品に登場する怪物は言葉を持たない存在であった。アニメ『怪物くん』(1980-1982)に出てくる「フランケン」も、せりふは「フンガー」だけであったと記憶している。なぜ映画化に際して、作品の最大の特徴でもある怪物の饒舌さを捨てたのかも知りたくなった。怪物はみずからの創造主にこう訴えかける。

おれは、恐ろしく醜悪で嫌悪をもよおす姿かたちをさずかっている。性質さえも人間並とは違っている。人よりも敏捷で、粗末な食べもので食いつなぐことができるし、極端な暑さ寒さにもそれほど害を受けずに耐えられる。体格は彼らをはるかにしのいでいる。まわりを見ても、自分のようなものは見えもしないし聞かれもしない。それでは自分は怪物なのか。大地のしみ、人はみなおれから逃げだし、誰もがおれを打ち棄てるのか? そうした思いに自分がどれだけ苦しめられたか、とても言葉では語れはしない。ふりはらおうと努めても、知識とともに悲しみはつのるばかりだった。おお、生まれた森に永遠にとどまっていたらよかったのだ。飢えと乾きと暑さの感覚以外、何も知らず、感じもせずに!

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メアリー・シェリーの先見性

この堂々とした怪物の主張が、映画版とのギャップもあってか新鮮に響く。いかにも19世紀的な、朗々とした語りではないか。その容姿のせいで他者との交流を持てず、山奥に隠れてひっそりと人間の言葉や読み書きを覚える怪物が、みずからの境遇を切々と語る場面は実にすばらしい。彼が『若きウェルテルの悩み』『ブルターク英雄伝』『失楽園』といった本を読むことで知の世界へわけ入っていくくだりなど、まさに読書のよろこびとはこのようなものではないか、と共感させられる。彼は、自分の妻となるもう一体の怪物を作ることをフランケンシュタインへ要求する。さすれば、怪物は妻と共に遠い土地へと向い、そこで残りの人生を過ごすというのだ。ここでフランケンシュタインが「怪物の要求にも一理ある」と考えて女性の怪物の制作に取りかかるという展開など、あらすじのユニークさにも惹かれた。

思うに本作は、作品そのものの文学的価値以上に、後の映画化、またSFに与えた影響力の大きさが重要ではないか。文庫版のあと書きにもあった『ブレードランナー』(1982)への影響など、まさしくメアリー・シェリーの先見性そのものであるように感じる。たしかに『ブレードランナー』におけるレプリカントと創造主との遭遇の図式は、怪物がフランケンシュタインの前に立つ様子そのものである。「この小説の真価はそれ自体の完結、古典としての完成度にあるのではなく、それ自身がひとつの可能体であり、さまざまな〝子供たち〟を作りえる、その可能性にある」というあと書きの指摘にあるように、19世紀初頭にあって、現代にまで通底するアイデアを備えている点が最大の魅力であると感じた。



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