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『ラストナイト・イン・ソーホー』と、フェミニズム映画に求められる要素

※内容に触れているため、未見の方はご注意ください

新規軸への挑戦

英映画監督エドガー・ライトの新作は、ロンドンを舞台にしたホラー/サスペンスです。これまでエドガー・ライトは、映画ファンとしての資質を全開にし、お気に入りの過去作品を無邪気に引用するスタイルを特徴とした、いわば「ファンボーイ・フィルム」とでも呼ぶべき作品を撮ってきました。そんな彼ですが、今回は女性を主人公に据えた新しい作風に挑戦し、未知のジャンルを開拓しています。フェミニズム的視点も備え、同監督にとって新機軸となる作品ではないかと期待しつつ映画館へ出かけました。まずは見終えた結論から述べると、個人的には「映画として非常に新鮮なルックを獲得できてはいるが、物語がそのビジュアルの美しさに追いついていない部分がある」と感じました。またあらすじについて、どう解釈すればいいのか、全体として整合性が取れていないように感じたシーンもあるため、その点について述べていきます。

まずはあらすじを見てみましょう。ロンドンの服飾学校への進学が決まった主人公エロイーズ(トーマシン・マッケンジー)は、ファッションの仕事をしたいと夢見つつ寮生活を始めます。しかし周囲とどうしてもなじめず、寮生活に限界を感じた彼女は、ソーホーに小さなアパートを見つけてひとり暮らしをすることになりました。アパートで暮らし始めた彼女は、どうやら60年代にその部屋で暮らしていたらしい、サンディ(アニャ・テイラー・ジョイ)と呼ばれる女性の記憶を追体験するような夢を見始めます。サンディは当時、ジャック(マット・スミス)と呼ばれる男性からひどい目に遭っていました。霊視のような特殊能力を持つエロイーズは、60年代の女性を通じて、彼女が経験した性的搾取の恐怖を知るのでした。一方、現代のソーホーの町には、年老いたジャックらしき白髪の男性がうろついており、エロイーズはジャックの罪を警察に訴え、彼を逮捕させられないかと画策し始めました。

みごとなショット

フェミニズム映画としての着地とは

本作は、実に魅力的な映画としてのルック、美しい構図や記憶に残るショットに満ちています。冒頭、主人公が踊りながら登場するくだりから、観客の期待はふくらみます。60年代の町にまぎれこんだエロイーズがたどり着く、『007 サンダーボール作戦』(1965)を公開中の映画館前の風景もまた、観客に幻想的なイメージを残します。また、ベッドに横たわる主人公がかけているシーツの内側に入ったカメラが一気に後退していくと、何メートルもの長さのシーツがはためきつつ、画面の奥へ遠ざかっていくエロイーズをとらえるといった空想的な映像にも圧倒されました。また本作は鏡にまつわる映画でもあります。ダンスホールの階段を降りてくるサンディの姿が鏡に写るはずが、そこにはなぜかエロイーズが写っている、といったイメージも実にすばらしい。ジャックとのダンスシーンで、サンディとエロイーズがめまぐるしく入れ替わる展開にも胸が躍りました。きっとCGなどは使わず、人の手で動かして撮った映像ばかりでしょう。その創意工夫が映画を魅力的にしています。

こうしたルックのよさに驚きつつも、ストーリー展開にはややわかりにくい部分があります。たとえば現代のソーホーをうろつく「ジャックらしき男性」はミスリードで、実は別の男性であったことが判明しますが、あまり効果的なミスリードではないような気がしました。「ジャックらしき男性」の存在や彼の急な事故死は、エロイーズを追い詰める結果にしかなっていないからです。あたかも、真相を究明したいというエロイーズの意思が誤りであったかのように見えてしまいます。また真の犯人が判明してからのエンディングも、かなり唐突かつ一気に進んでしまうので、心の準備が整わないという印象でした。なぜアパートの大家(ダイアナ・リグ)は、炎に包まれて死を選ばなくてはならなかったのか。彼女には生きてほしかった。大家の女性は被害者ではないかと思うのですが、最終的に「どの者が何についての責を負うべきか」について、納得の行く結末がもたらされていないように感じたのでした。エドガー・ライト自身、それなりの決意を抱いてフェミニズム映画に挑戦したはずで、だからこそ性的搾取の被害を受けた女性の行く末は納得の行くものでなければいけなかったと思うのです。画的な洗練度がここまで高まっただけに、ストーリーについてもより深い納得度が得られる作品であれば、より感動も増したように感じました。

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