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布教映像としての『シン・ウルトラマン』

いまから映画『シン・ウルトラマン』について書いていくのですが、封切り翌日ということもあり、直接的に「どこがどうか」といった細部への言及ではなく、全体の印象について述べていこうと思います。また、私は特撮の知識がほとんどない門外漢であり、ウルトラマンについても、小さな頃に再放送を見ていたていどであることもつけくわえておきます。

好きな何かを人に勧めるとは

「自分の好きな何かを人に勧める」というのは意外に難しい。オタク的には「布教」などといったりするが、ここで最大の問題になるのは、門外漢に対して「たくさんあるオススメ作品のうち、どれをどの順番で、どのくらいの分量で布教するのが最善か」である。たとえばあるオタクが、ひとりのミュージシャンを応援しているとしよう。そのよさを人に伝えたいと思う。そこで、布教のためにプレイリストを作ろうと選曲を開始するのだが、ここでつきあたるのが「どの曲もよすぎて選べない」というおなじみの事態である。これは絶対に入れたい、こっちの曲も外せない、まさかこの名曲を入れないわけにはいかない……。深い愛ゆえに、リスト作成は難航をきわめる。

煩悶の結果、全45曲(計3時間15分)を詰め込んだ大型プレイリストが完成し、布教相手に「聴いてね!」と手渡してはみるのだが、その人が興味を持ってくれた気配はない。もちろん理由は明らかだ。多すぎるのである。45曲を通して聴く時間など、誰にもない。最高の選曲をしているはずなのだが、相手からすればその量だけで聴く気が失せてしまう。しかし、当のオタクは当初127曲(8時間40分)あったプレイリストを削りに削って45曲にまでコンパクト化したのであり、もうこれ以上は1曲も外せない、という切迫した事情がある。3曲に絞れば聴いてくれると思うが、ファンからすれば「3曲に限定する」など冒涜のきわみであり、そんな非道ができるかと感じてしまうのだろう。

作品との距離感

私は『シン・ウルトラマン』を、樋口真嗣と庵野秀明による「布教」ととらえた。本家の『ウルトラマン』(1966〜)がいかにすばらしいものかを、世に知らしめようという意志を感じたのである。「これから『ウルトラマン』を初めて見るんだけど、何話がオススメ?」という問いに応えるべく作られた布教映像という側面が、『シン・ウルトラマン』にはあるのではないか。そして樋口と庵野は、心から『ウルトラマン』を愛するがゆえに、前述した「プレイリスト問題」に陥ってしまっていると感じたのだ。4部構成というあわただしい章立てと、次々にあらわれる敵はそのわかりやすい例だ。劇中の4パートは前後のつながりに欠ける部分もあり、「ああ、これは別々の話が細切れで連続していくのだな」と理解を得るまでに少し時間がかかる。

『シン・ゴジラ』(2016)が成功した理由のひとつとして、庵野秀明がゴジラにそこまで思い入れがなかったというのはよく言われていることだ。あるていど客観視できる距離感があったからこそ、『シン・ゴジラ』は名作たりえたのではないか。そして『シン・ウルトラマン』は、深い思い入れゆえに、距離感を見失って「好き」が暴走してしまっている感がある。劇中「このモチーフは外せない」「このシーンにオマージュを捧げたい」が詰め込まれていることは、『ウルトラマン』を知らない私にも想像がつくのだが、布教の観点からいえば「曲数の多すぎるプレイリスト」的であることは否めない。細部に拘泥するあまりに全体像が喪失している感覚もある。また、いくぶんセクハラ的なショットがいくつかあり、そこに対しても疑問を持った。

作品冒頭からいきなり怪獣が登場してしまうのも違和感があったが、きっと「やりたいことがたくさんありすぎるから、ぱぱっと行きますね」という事情なのだろう。まずは平穏な日常あっての怪獣出現といきたいところだが、入れ込まなくてはならない場面が多すぎて、樋口と庵野は大忙しなのである。ウルトラマン大好きだから。好きであるからこそ、伝達には限界があると受け入れなくてはならない、という事実。好きな何かについての文章を書くことの多い私も、この厳しい現実を受け入れ、できるだけコンパクトに核心のみを伝える工夫をしていこうと思う。プレイリストに入れられるのは3曲までなのだ。

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