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『あのこは貴族』と、車窓から見えるさまざまな風景について

ジェンダーと階層

「元旦に高級ホテルですか。お客さん、東京の人でしょう。こんなホテル、私一度も入ったことないですよ」と、タクシー運転手に失礼な皮肉を言われる主人公、華子(門脇麦)。彼女が眺める閑散とした正月の都心から、映画は始まります。華子が向かっているのは、高級ホテルの料亭で開かれる家族の食事会。このオープニングにはすでに、作品の主要なテーマが織り込まれています。そもそも運転手は、相手の客が中年男性だったら、このような軽口を叩いただろうか。そして、元旦から休みなく運転手の仕事をしている男性は、高級ホテルの料亭で食事などできるだろうか。本作のテーマであるジェンダーや階層は、冒頭のワンシーンですでに残酷なまでに集約され、提示されていることに気がつきます。また、ロケハンに対するこだわりも特筆すべきであり、他の映画ではあまり見ることのない東京の風景、いわば「富裕層から見た東京」がスタイリッシュに描かれているのも重要です。

物語冒頭、このような場所で食事をしたらいくらかかるのか、想像もつかないような料亭の一室で、手の込んだ正月料理をたのしむ一家。率直にうらやましく思うのと同時に、彼らのやけにぎすぎすとした会話を眺めていると、ひとりでファミレスのハンバーグでも食べた方がよっぽど気がラクだと感じてしまいます。松濤に住み、本物のお嬢様として育ってきた華子は、みずからが裕福な出自であるという意識すら希薄であり、自分がいかなるアドバンテージを有しているのか、あるいはどのような不自由をこうむっているのか、その両方に気がついていないようです。華子に「そろそろ結婚しろ」と迫る一族。ストーリーは、20代後半になった主人公が、それまで結婚を考えていた恋人の男性と別れて、夫となる候補の男性を探し始めることで動き出します。華子がさまざまな場所へ出向き、男性と出会うきっかけを求める前半から、意中の相手である幸一郎(高良健吾)と出会い、結婚にいたる後半に、もうひとりの登場人物である美紀(水原希子)が絡んできます。

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地方と東京

富山県出身の美紀は、大学進学こそしたものの、父親の失業で学費が払えなくなります。キャバクラのアルバイトで学費を賄おうとしますが、断念し中退。しばらく水商売をつづけた後、店にきていた客の紹介で就職しました。華子が暮らす富裕層の世界にはまったくなじみのない映画の観客も、美紀が実家へ帰る描写にはおおいに既視感があるはずです。車にばかり金をかけるヤンキー風の弟に迎えにきてもらい、実家まで車で移動する場面でスクリーンに写し出される地方の風景は、華子がタクシーの車窓から眺める風景とはずいぶん異なります(余談になりますが、劇中「また車を変えたの」と訊く姉に、弟が「先輩から買った」と答えるせりふのやり取りには嫌になるようなリアリティがありました)。美紀が、かつて自分の部屋であっただろう一室で、ジャージのようなぱっとしない部屋着に着替えるシーンも忘れがたい。つけっぱなしのテレビ、デリカシーのない父親、やたらモノの多い家、それらがもたらす途方もない閉塞感。私は「この感覚」が怖くて東京へ逃げてきたし、絶対に故郷へは戻らないと誓って生きているようなところがあります。華子と違い「持たざる者」である美紀ですが、友人女性との関係性によって未来の可能性をたくましく切り開いていきます。

ほんらい出会うはずのなかった華子と美紀。「東京では、階層が違う者どうしは出会わないようになっている」にもかかわらず、偶然が両者を引き合わせます。どちらの女性にも不自由があり、また自由への可能性がある。ここで華子と美紀のふたりが結束できることが、何よりすばらしいと感じるのです。私は、男性とどのように結束し、つながればいいのかわからない。それは主に私自身の至らなさゆえなのですが、同時に、男性同士の結束のむずかしさ、共闘の限界でもあると思うのです。家柄のいい男性と結婚し、名門家の一員となった華子は、とある政治家がかつて発言した「産む機械」そのままに出産だけを期待されます。子どもが男の子であれば将来は政治家になることまで確定している事実に気づき、慄然とする華子。こうした息苦しさが静かなトーンで描写されていく後半もみごとです。とはいえ、こうしたヒエラルキーの上位に位置するはずの幸一郎であっても、人生に選択肢があるなどと実感した経験はないような気がします。果たして「自分が自由に生きているのかどうか」をいったいどうやって確認すればいいのか、私にはいまだによくわからないのです。

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