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生活保護は本当に「なまけぐせを助長する」のか

われわれにとって労働とは何か

生活保護に関してよく言われる、安易にお金を渡したら働かなくなる、なまけぐせを助長する、といった考え方は本当なのでしょうか。私は、こうした意見は、人間と労働との関わり合いをあまり深く考えたことのない、短絡的な発想であると思います。毎日、何もせずにごろごろするのは、果たして楽しいだろうか。私は、かなりキツいと考えています。退屈だし、つまらない。最初の1週間ぐらいはいいかもしれませんが、そのうち何かしたくなるのが人情です。外に出て、人と触れ合いたくなる。何らかのかたちで、周囲の役に立ちたいと思う。ただ寝転がってすごすには、人生は長すぎます。何かしたいなと思うわけですね。ことほどさように、生活保護の問題について考えることは「われわれにとって労働とは何か」という問いに直結するのではないかという気がします。

これは何も、建前や偽善で言っているのではありません。たとえば刑務所内で、禁錮刑を課された受刑者は、何もしないと退屈で苦痛なので、ほとんどの方がみずから希望して刑務作業(労働)をするそうです(懲役刑の場合、刑務作業は義務ですが、禁錮刑では義務でありません)。これは「請願作業」と呼ばれています。何らかのかたちで社会参加したいと思うようになる。なにしろ、ただ禁錮されているとヒマなんですね。ヒマは苦しいし、何かさせてほしい。どんな労働でもいいから役割を与えてほしいと思うようになる。禁固刑の受刑者のほとんどは、まさに労働を「請い願う」わけです。彼らは、お願いだから働かせてほしいと頼み込みます。そしておそらく多くの人は、受刑者が「請願作業」をする心理が理解できると思います。それはそうですよね。何かしら手を動かしていた方が気がまぎれるし、心身の健康が保てそうです。ひとりでずっと天井を眺めていたら、頭がどうにかなってしまうかもしれません。

「Netflixだけを見続ける人生」は可能か

こう言うと、刑務所と違って一般社会には Netflix やらプレステやらがあるんだから、そちらに没頭して何もしない輩が出てくるはずだという意見が出るかもしれません。もちろん、配信ドラマとゲームに耽溺していっさい労働をしない人が出てくる可能性がゼロとはいえません。そういう人も中にはいるでしょうが、確率としてはきわめて低いと思います。各種の娯楽で多少は気をまぎらわせることはできても、結局は時間の問題です。なぜなら彼らは、労働による社会参加を取り上げられた「ソフト禁錮刑」に課せられているのと同じであり、自分が社会とまったく噛み合っていない状態が苦痛になった結果、やがて「請願作業」を希望することがあきらかであるためです。労働の場に参加した方が絶対におもしろい。「ヒマだな、何か周囲の役に立つことがしたい」と思う人がほとんどです。そもそも、何もせずにずっと Netflix だけを見続ける人生、どうですか。つまらなそうだし、私はいやです。やっぱり何かしたいですね。

私は、希望する人がなるべく容易に生活保護を受け取れる社会がいいと思っているのですが、そうすると「仕事を選り好みしたり、たとえ働き始めてもイヤになったらすぐやめてしまう人が増えるのではないか」という意見が出てくるかもしれません。一度「社会が助けてくれる」と味をしめてしまったら、自分勝手で根気のない人間が量産されるという見方です。これも一考に値する疑問かもしれません。個人的には、お金が原因で生活の不安を抱える人がいない社会を望んでいますが、お金の心配があまりない社会では、仕事をすぐ辞める人、やる気のない人が増えるという意見は正しいのでしょうか。

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なぜわれわれは仕事を辞めないのか

こうした問いについては、デヴィッド・グレーバーという人類学者が、著書『ブルシット・ジョブ』(岩波書店)のなかで非常に的を得た解説をしていますので、取り上げてみましょう。果たしてわれわれは「根気があるから」「まじめだから」仕事を辞めずに続けているのでしょうか。職場に満足していればいいのですが、そうではない人も数多くいますよね。グレーバーは、とある女性の働く職場を取り上げ、上司が女性を何度も呼び出しては、何ヶ月も前のミスをたびたび蒸し返して嫌がらせをするという状況について考えています。あきらかに無意味なパワハラなのですが、女性は嫌がらせを受けても、そう簡単に「辞めてやる」とは言えません。これはなぜでしょうか。グレーバーは「職場政治のいわれのないサディズムの力学はすべて、経済的ダメージを感じることなく『辞めてやる』といえないことに基盤を置いている」のだと主張します。

私たちがパワハラやセクハラに嫌気がさしても会社を辞められないのは、家賃や光熱費が払えなくなるからです。生活できなくなってしまうからこそ、そう簡単に「辞めてやる」とは言えない。陰湿なハラスメントをする人は、相手がすぐには会社を辞められないことを知っています。われわれは、根気があるから会社を辞めないのではない。辞めたら生活できないからこそ、場合によっては苦しみながらも職場にしがみつくのです。一方、仮に誰もが容易に生活保護や失業保険、困窮した際の補助金などを十分に受け取ることができ、それが当たり前になれば、パワハラやセクハラもできなくなりますし、過酷な労働環境の職場もなくなります。そのような職場は、単に退職して終わりになってしまうからです。ここでグレーバーが想定しているのはベーシックインカムなのですが、いずれにせよ生活費の心配が少ない社会では、われわれは簡単に「辞めます」と言える。劣悪な労働環境からの脱出がスムーズになり、職場環境に満足している人だけが働き続けられるようになるはずです。

人間は強制がなくとも労働をおこなう

そのため、生活保護をはじめとする各種補助の充実によって、とても生活できないような低賃金や、過度に精神的負担のかかる劣悪な仕事に従事する人はいなくなりますが、それじたいはいいことなので、結果的には社会全体の幸福度の向上につながるのだとグレーバーは考えます。また、働きやすい環境、十分な給与が受け取れる職場であれば、人びとは当然ながら働き続けるため、結果的に劣悪な労働環境は淘汰されていきます。そうなれば労働への満足度は上がり、救済手段としての生活保護には大きな社会的利益が生じるのではないかと私は考えています。生活保護やさまざまな救済手段は、根気を奪うのではなく、劣悪な職場環境のを淘汰を助け、不必要ながまんをしなくてもよい健全な社会を作るツールとなり得るのではないか。「所得が保障された社会では(…)少なくとも、最低限の気品と敬意をもって彼女に接しなければならなくなる」。でなければ会社を辞められてしまいます。これまで論じてきた点について、グレーバーの意見を引用します。

人間は強制がなくとも労働をおこなうであろう、ないし、少なくとも他者にとって有用ないし便益をもたらすと感じていることをおこなうであろう、と。わたしたちがみてきたように、これは理に適った想定である。ほとんどのひとは、ぼーっとテレビの前に座って毎日をすごすことを選ばないだろうし、完全なる寄生生活を本当に好む一握りの人間が社会の重圧になることもないだろう。というのも、人びとが安逸で安全な状態を維持するのに必要とされる労働の総量は、とてつもなく大きなものではないからである。

ほとんどの人は働きたいと思っている

なまけ者を養う余裕などない、という意見もよく聞きますが、そこまでコストはかかりませんよ(「社会の重圧になることもない」)というのがグレーバーの主張です。また、さまざまな事情で働けない人もいるでしょうし、そういった人に労働を強制するべきではないとも思います。働きたい人が働けばいいし、これまで見てきたとおり、ほとんどの人は働きたいと思っているのですから。そして、本当に筋金入りのなまけ者で、Netflix を見る以外にいっさい何もしない変わった人が少数いたとしても、それでいいのです。その人には憲法で認められた生存権があり、健康で文化的な最低限度の生活を送ることができますので、お家でゆっくり配信ドラマを見てくださいね、そしておもしろい作品があったら私に教えてくださいと伝えたいです。

さて、その「なまけ者」は、ただ配信ドラマだけを見ながら何もせず、のんびりと生きていくことができるでしょうか。ここもなかなか難しいところです。なぜなら、人はどうしても感想を誰かに伝えたくなるからです。仮にヒマにあかせて Netflix の感想ブログを書き始め、読者からわずかでも投げ銭を受け取ったとすれば(あるいはアフィリエイト収入を得たとすれば)、それは立派な社会参加であり、労働と呼ばれる行為へ近接していくことになります。ブログを書くことは社会への参入であり、配信ドラマの感想ブログは確実に人の役に立ちます。ことほどさように、放っておいても人はどうしても何かをしちゃうものです。「完全なる無為」っていうのもなかなかできません。なまけることを徹底するのは至難の技であり、何もしないとは、そのくらいしんどいことなのです。


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