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『フランケンシュタイン対地底怪獣』と、戦後の広島

『フランケンシュタイン対地底怪獣』(1965)


えもいわれぬ孤独と悲しみにあふれた映画でした。社会に受け入れられず、閉じ込められた檻から逃走するほかなかったフランケンシュタインの苦悩が、作品全体を貫いています。ジェームズ・ホエール監督の『フランケンシュタイン』(1931)が描いた異形の者の孤立感を下敷きにしつつ、「自分の意思とは無関係に巨大化してしまう身体」という要素をくわえた展開が新しい。これはほんらい、怪獣映画として必要な、巨大地底怪獣との戦闘シーンを成立させるための展開なのですが、ストーリーに思わぬ効果をもたらしています。自分の身体が20メートルになったら、誰だって途方に暮れてしまう。巨大化にいちばん困惑しているのはフランケンシュタイン本人です。彼の咆哮は「私は何者で、なぜ生まれてきたのか。そして身長はどうにか元に戻らないのか」という悲痛な叫びに聞こえるのです。

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終戦後を生きた浮浪児たちの暗喩

Netflixで視聴可能になり、今回が初見。スチル写真の印象は怪奇性やキッチュさが目立ちましたが、実際には日本の戦中・戦後史への批評性を感じるフィルムで、思わず見入ってしまいました。原爆に対するシビアな視点がテーマであり、原爆投下シーンでは、観客に向かって押し寄せるような激しい炎が描かれます。また、住む家もなくさまようフランケンシュタインの姿も印象的です。「終戦後は浮浪児がよくいましたが……」という劇中のせりふにもあるように、フランケンシュタインとは、戦後の日本社会で行き場を失くした無数の浮浪児たちの暗喩と見るべきでしょう。

舞台は1960年の広島。原爆に被曝した患者を治療する医師たちが主人公です。広島の町では「犬を襲って食べる浮浪児」がうわさになっていました。医師は、原爆症で死んだ子どもの墓参りをした帰り際に、くだんの浮浪児と偶然出会い、家へ連れて帰ります。この浮浪児が実はフランケンシュタインでした。女性医師の戸上(水野久美)は、浮浪児を「坊や」と呼んで面倒をみます。やがてフランケンシュタインは身体が大きくなっていき、収容されていた施設の壁を破壊して脱走。最終的には20メートルにまで成長してしまい、自衛隊が出動する事態に発展します。広島から日本アルプスまで逃げたフランケンシュタインでしたが、最後には、地底からあらわれた怪獣バラゴンに遭遇、激しくぶつかりあうエンディングが描かれます。

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団地にあらわれる身長5メートルの子ども

映画がもっとも際立つのは、身長5メートルほどのフランケンシュタインが、自分をかわいがってくれていた戸上の住む団地を訪ねる場面です。セット撮影で再現した団地の情景がいやに生々しい。実際に身長5メートルの人間が団地にあらわれたらどう見えるか、そのぎょっとするような対比に目を奪われるのです。50メートルの巨大怪獣が東京のビルを壊すのとはまた違った、独特の「大きい」という感覚、めまいのするようなリアルさに圧倒されます。それと同時に、身体ばかりが大きくなってしまった子どもが、母親に救いを乞うような悲哀が、このシーンにはあふれています。

あるいは戸上であれば自分を受け入れてくれるのではないか、という淡い期待をもって、フランケンシュタインは団地の窓から家のなかをのぞきます。しかし、5メートルまで巨大化した姿に怯える戸上を見て、彼は自分がついに、この社会から完全に疎外されてしまったという事実につきあたり、悲しげにその場を去っていきます。「ここまで異様な姿になってしまった自分は、もはや他者とどのような意味合いにおいてもつながってはいないのだ」と悟ったかのように……。

フランケンシュタインは同情を誘いますが、それですら、人間ではない何か、捨てられた犬や猫を見るような憐憫になってはいないだろうか。フランケンシュタインが、戦後日本に数多くいた浮浪児のメタファーであることは疑いようがなく、彼らは尊重こそされ、憐れむべき存在であってはならないのです。そうした偽善を撃ってくるような鋭さが、『フランケンシュタイン対地底怪獣』にはあるような気がしました。


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