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君と異界の空に落つ2 第5話

 それは、想像以上の理不尽だった。
 流石の耀も気が滅入るくらいの理不尽の数々だ。
 夕餉が終わると翌日の予定を言い渡されて、殆どが掃除だったから、気を抜いてしまった部分はある。虐められた経験も無いから、どういうものかも分からなかった。
 浄提寺では小坊主は振鈴(しんれい)の番が割り当てられて、順番に早起きをして、起床を促す役目を負っていた。朝晩は冷えるけど、暖かい地方に来た事もあり、そこに居たより格段に早起きするのは苦ではない。炭がなくても手足の冷えは我慢出来る程だから、早起きをしてお堂を拭けと言われても”楽だ”と思っただけだった。
 初日という事もあり、耀は気合いを入れて早起きをした。瑞波にも祝詞を読んでやりたかったし、自分の予定も組み込んで。前日、自分が掃除に使った外の桶ではなくて、用具入れがあったらしくて、そちらを使えと言われていたから。起こせ、とは言われていなかったから、静かに準備をし、川から水を汲んでくると、また静かに掃除を終えた。
 その頃、起きてきたらしい英章の気配に気付き、朝の挨拶を口にして、驚かれた雰囲気だ。お堂の掃除は終わったけれど、次はどうすれば良いですか? と。英章は「なら手伝え」と耀を厨(くりや)に引っ張って、きつい言葉を掛ける割に、食事の作り方を教えてくれた。
 彼は目つきと言葉と態度は悪い方なのだけど、これで上の兄弟子よりも優しいと知っていく。言わば、彼にも”仕事”があって、耀に構っている時間は無い。上二人の兄弟子は、物臭な和尚に代わり、外のお勤めに出て行くけれど、暇な人達だったのだ。次は廊下、次は門、寺の中で目に付く場所の掃除が終わったと知ると、墓場の方ではなくて、雑木林の落ち葉を掃け、と意味の無い事を言ってくる。
 何処から何処までが敷地であるのか見当もつかないが、この辺でいいか、と寺に戻れば、拭き掃除を終わらせた筈の廊下に、大根が置かれてあって汚されている。ぽかん、とした耀を見下ろして「英章の所まで持っていけ、床も掃除しておけよ」と言ってくる訳だけど、それなら床を汚さないよう初めから厨へ向かえば良い訳で、首を傾げる耀の後ろでニタニタ笑うようなのだ。
 気付かなかったのだけど、瑞波が『わざとですよ』と教えてくれたので、いびりか何かなのだろうと思った訳だけど……また川へ水を取りに行くのを苦とは思わぬ性格と知ると、その後は拭き掃除をしている最中(さなか)に桶を蹴って溢したり、汲んできたばかりの綺麗な水に何故か土を入れたり、と。なかなか幼稚で地味な嫌がらせを繰り返すようになり、やめて下さい、とお願いすると「煩い!」と蹴ってきたり、等。
 蹴られた事が無かった耀は脇腹をやられた時に、一瞬何が起きたのか理解出来なかったけど、がしゃん! とお堂の瓔珞(ようらく)が落ちて兄弟子の意識がそちらへ向くと、その隙に理解した風だった。何だぁ? と尚路(しょうじ)がお堂へ歩いて行ったなら、側に寄って来た瑞波が尋常じゃなく怒って見えたから。
 瓔珞は瑞波の怒りで落ちたらしい。抑えきれない神の怒りは、そうした事を引き起こす。強すぎる怪異が齎す現実への影響を、ふと思い出した耀だった。落ちた瓔珞は所々ひしゃげて壊れたが、仏像の隠れた埃も放置するような寺である。音に驚いた和尚も来たが、古い装飾だからなぁ、と。とりあえず無事なところだけ掛けておく、それで済まされる事になる。
 尚路は耀を蹴った事など既に忘れたようであり、瓔珞が落ちて一緒に落ちた埃の類を見ると、こっちも片付けておけよ、と言って自室に戻って行ったのだ。和尚は耀の事を心配する顔を浮かべたが、まぁもう少し馴染んでから、と、思ったような顔をした。何が”馴染んでから”なのか、ぞくっとした耀だけど、瑞波の怒りが冷めやらないので、そちらに向き合う事にする。

『大丈夫』

 と小声で言って、黙々と片付けを始めるが、それを別の場所からも嫌な視線で見られていたのだ。尚路の”しごき”にも根をあげぬとは、中々見込みのある小僧だ、と。
 陽岬(ひさき)からのちょっかいは、次の日から始まった。毎日掃除をさせられる耀は、寄って来たその人へも等しく挨拶をする。まだ何もされていなかったから気を抜いてしまっていたのだが、その人は普通の雰囲気で、足を掛けて耀を転ばせた。
 重たい水桶を持っていたから、それなりに被害が大きかった。一枚しか持っていない着物が盛大に汚れたし、地面に変に手をついたから腕を捻ったようなのだ。何が起きたか分かっていない耀の間抜け面を拝んだら、その人は満足したらしくニヤニヤと去って行く。えぇ……と思ったが、無くなった水は戻らない。仕方なくもう一度川へ向かうが、腕が痛んで辛かった。
 陽岬はその後もふらりとやってきて、四つん這いで拭き掃除をしている耀の背中を蹴ってきた。英章の手伝いで厨に居る時も、蹴られたり顔を熱い釜に押し付けられそうになったりと、遠慮も手加減も無い様子であるので困ってしまった耀である。
 その時も勿論、瑞波が現実を震わせた。天井から吊るした笊(ざる)の紐が切れたようであり、干し野菜が厨中に散らばって、英章が並々ならぬ叫び声を上げたから、陽岬も驚いて虐める手を止めたのだ。もう冬へ向かうだけの季節である訳で、貴重な食べ物に土がつくのは陽岬も嫌だと思ったらしい。此処に居ては拾う手伝いもしなければならない雰囲気で、それも嫌だと思うから早々に退散するのである。
 耀は英章が言った言葉を思い出すような気になった。怒らせては駄目なのは陽岬兄さんの方である、と。怒らせてはいないけど、普通があれだから、怒らせたらより恐ろしい事をされるに違い無いと思う。確かに、どちらもその時の気分で耀の仕事を邪魔してくるが、より致命的という意味合いにおいて、上の兄弟子の方がきついのだ。
 どうして二十も超えたような大人に虐められるのか知れないが、この寺に引き取られた子供の仕事がそれなのだろう、と想像出来た。つまり、暇を持て余した故の虐めであって、子供は大人の気晴らしに付き合わされる小道具なのだ。
 耀の体は若いから、出来た痣も直ぐに治るが、全てが治らぬうちに次の痣をつけられるので、冷静に鑑みても中々理不尽な状況だ。

「それにしても陽岬兄さん、お前にあたりがきついよな」
「え?」
「流石の俺も火に掛かった釜で、顔を焼かれそうになった事はねぇんだよ」

 矢張り、英章の言葉から、耀は相当な理不尽に遭っているらしい事が伺える。一緒に土間に散らばった干し野菜を拾うけど、英章は「やっぱ怖ぇな……」と、兄弟子を思って震えるだけである。

「あの、英章様は、どんな目に遭ってきたんですか?」
「ん? あぁ。まぁ、お前と一緒」
「水桶を溢されたり、蹴られたり?」
「裏にある糞の溜め地に落とされた時もあったかな。お前も気をつけろよ。冬の水浴びは辛いぜ?」

 と。
 それを想像して震えると、横で「これが落ちて良かったよな」とも。

「此処、医者、居ねぇんだ。火傷したらしたっきり。すげぇ痣が残っちまうし、治るまでも痛いと思う。運良いな、お前。そうならなくて良かったな」

 それで耀は何気なく、英章に聞いてみる事にした。

「英章様は……この世ならざるものが、視えたりするような体質ですか?」

 聞かれた英章は、少しはぴんときたらしい。

「何? お前、視えたりすんの?」
「いえ、視えはしないのですが……」
「拝み屋じゃあるまいし。此処じゃ誰も視えねぇよ」
「そうなのですか?」
「そうじゃなきゃ坊主なんてやってねぇだろ」
「え? 逆じゃなくて、ですか?」
「物の怪とか幽霊が視えたなら、骸とか墓の管理とか、怖くて出来なくなっちまうだろ?」
「…………」
「陽岬兄さんも尚路兄さんも、俺も、この辺で親を亡くした”くち”なんだ。そんで此処に入れられて……和尚に世話になるしかない」

 和尚もな……兄弟子は大分声を顰めつつ。

「俺が言ったって絶対言うなよ? 最初のあれ、視えているふりをしていただけだ。経にも何の霊験もないぞ。俺は視えない方だけど、そういう勘は働く方だ」

 それは何となく分かってた……と、言わないまでも否定せず。
 じゃあ此処に瑞波を感じる人間は居ないのか、と。気付かれなくて良かったと思うが、気付かれないからあぁも簡単に、耀は害されてしまう訳だ。同じ寺だと思ったが、所変わればこんなにも、何もかもが違うらしい。視えないから坊主をやっている、という、そういう感性は初めてだった。だけど、それもまた理に適う。
 孤児が坊主をやる地域。成程……成程……と思った耀だ。時代的にまだ存在しないだろうけど、穢多、非人、に近しい存在だ。嫌な仕事は孤児にやらせる。孤児に全ての皺寄せが行く。
 これから先、彼らの行いが、もっと酷いものになったらどうしよう。冬を越すのと瑞波が爆発するのと、どっちが早いだろうか……と。骨折しても治せるような医者が居る時代でもない訳で、自分の身よりそちらの方を心配している耀の気の優しさだった。

「和尚様……本当は力が無い方なんですね……」
「お前を連れてきた修験者みたいな、あぁいう奴らだけだろう? そういう力がある奴は、もっと良い所に引き取られていく」
「そうなんですか?」
「そうなんじゃねぇの? 少なくとも拝み屋だとか。拝み屋の方が俺らより良いもん食っていけるしな。そうだ。お前、明日の朝も掃除が終わったら此処に来い。少しだけだろうけど、裏山にきのこが生えている筈だ。生える場所を教えておくから、来年まで覚えとけ」

 丁度、土間に散らばった野菜を拾い終わった所で、分かりました、と素直に返した耀である。そういえば自分はそれが得意だ。明日は役に立てそうだ、とも。
 実際、その日は普段より多く採れたようであり、英章と採ってきたきのこを庭で広げていた所、通り掛かった兄弟子達が感心するように声を掛けてきた。また蹴られる、踏まれるかも……と、身構えた耀だけど、貴重な食べ物を前にして、兄弟子達は機嫌が良いようだ。
 こいつ、きのこ取りが上手でして、と、何気なく英章が口にすれば、それは良い特技だな、と、普通に褒めてまでくれる。有り難う御座います、と、恐る恐る返したが、その日は本当に機嫌が良くて、邪魔される事が無かったのだ。
 兄弟子達のしごきは無いが、問題は別の所にも落ちていた。

「そろそろお前も寺に馴染んだ頃だろう。今夜、私の部屋に来なさい。経文を教えてやろう」

 和尚の声音は優しいものだ。

「あ……はい……分かりました……」

 別の経文を知ってはいるが、確かに此処の経文は知らない。
 皆が居る場で言われたもので、兄弟子の三人ともが、分かった顔をしながらも全員知らぬふりをする。
 耀も頭では分かっていたのだ。近くに控える瑞波の顔も怖い。断れない雰囲気だから、はい、とは言ったけど……。
 これは困った……本当に困ったぞ……と。
 頭を悩ませれば悩ませる程、約束の時間が近付いてくる。


 耀は意を決して声を掛けた。

「和尚様、参りました」
「おぉ。よく来た。入りなさい」

 和尚が使う居室を前に、深く息を吸い上げた耀である。

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ちかい
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