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君と異界の空に落つ2 第6話

 彼が用いた手法は、よく伝え聞くものである。耐え難い思いをするだろう相手との閨(ねや)の一幕で、知恵を絞った先人達が実践したと語られる。千夜一夜物語のように彼には文才は無い訳で、実行出来るとするならば、思いつくものは一つだけ。
 分かりやすい怒りの先、口を噤んで静かになった、瑞波の無表情を見て、耀は少しずつ分かり始めた。彼自身が静かなる聖域となるように、度が過ぎた”穢れ”を見ると遮断が始まるようだ。穢れというよりは嫌悪だろうか。とにかく”怒り”に通じるものだ。
 そう……多分……彼という存在は、この世の汚れた部分と非常に相性が悪いのだ。清浄でなければ受け入れられない。秩序ある、理想とされる、美しいものにしか触れられない。その他の”汚れ”は弾かれる。それが外界との”遮断”に現れる。彼が黙れば黙る程、感情を出さなくなる程に、遮断が深い、怒りが大きいと見るのである。
 そんな未来の伴侶を見ても、耀はどこか余裕があった。仕方ない奴だな、と、単純に思うのだ。困らされているのは自分である筈なのに、問題を横に置き、伴侶の事を理解しようと努める姿だ。耀は子供と大人の心を揺れ動きながら、自分の真価、本当の価値、真髄へ通じる一手を滲ませた。瑞波が望むから……という部分もあるのだろうけど、彼だからこそ名を記されぬ、祓えの神の伴侶になれる。そうしたものを滲ませる、懐の深さが見えてくる。
 耀を部屋へ招いた和尚は誘った通り、初めは経文の勉強をさせてくれた。そもそも字が読める耀だけど、知らぬふりをしてその時間を引き延ばす。熱心な生徒程、師を喜ばせるものはなく、和尚様、これは何ですか? 何と読むのです? どういう意味ですか? と、言葉と表情巧みにその人をその気にさせたのだ。
 溢れんばかりの尊敬と称賛に、気を良くしたその人は普段より張り切ってくれたよう。まるでホステスになった気分の耀だったけど、和尚の欠伸が見え始め、そろそろ……と思われた気配を読んで、「どうじゃ? 今日は一緒に眠るか?」という、一人ぼっちになってしまった子供がのっていきそうな、言葉を発した人へ、「では先に横になって下さい」と、うつ伏せに寝るように促した。

「なんじゃ? 腰でも揉んでくれるのか?」
「はい。前の場所でもお師匠様に、お仕えするのが仕事でしたから」

 耀の口からするすると、都合の良い言葉が漏れる。
 彼の師匠は年齢も若く、触れられる事を嫌っていたので、一度も彼に対してそのような事は願わなかったけど、嘘も方便、と思うついでに、使わせて下さい、と、遠くのお師匠様を思って元来の図々しさが出た。
 心をやられて窶れたその人の、唇を舌でこじ開けて、水を飲ませようとした弟子である。どうしてそんなに強いのか……貴方は亮凱(りょうがい)などよりも恐ろしい男になる……と、言わしめさせた耀である。そうした本来持ちうる”強さ”というのを、ここで発揮しない訳がないのである。
 道中、按摩(あんま)をして銭を稼ぐ人も見てきた彼だ。歴史物のドラマでも、そういう一幕を見た事がある。古くは按摩と言えば盲目に生まれついた人が生きる術、その更に後ろの方に夜の仕事が結びつく。大人達は何も言わぬが、暗黙として知られていた事だ。果たしてそういう生き方を汚いと取るか、どうなのか。技芸と知識と性技を極めた上に、観音様、と表現される芸子も生まれてくる訳だ。そこでしか生きられない鎖が填められているのなら、泥水の中から咲く蓮を、どうして貶める事が出来るのだろう。
 耀には按摩に対する忌避はない。お師匠様にお仕えした、も、聞きようによってはそれである。もし雪久の耳に入れば瑞波のように怒るだろうが、事実無根であるならば多少は堪えてくれるかも。そう考えて、耀は「ふっ」と静かに笑う。
 似ているのだ。そう言えば。お師匠様と瑞波は似ている。
 本当は愛されたいのに、黙って我慢してしまうところなど。
 怒りが深ければ深いほど、真顔になって冷たくなる所。
 感情のまま怒りをぶつけて、ひっそり後悔をしていたり。
 具合が悪いと思えば、こっそり尽くしてくれたりもする。
 やっと瑞波は耀の作戦に気付いた顔をして、怒りを露わにした自分を恥じるよう、和尚の体を境目に、反対側へちょこんと腰を下ろした。
 兄弟子の英章が言うように、この和尚は神の気配が分からぬ人らしい。そうして気付かれないままに耀と瑞波は協力し、見様見真似で手を這わせた耀を誘(いざな)うように、瑞波は『此処が凝っているようです。次は此処、昔、人の眠りのつぼは此処だと聞きました』等、ゆっくりとゆっくりと和尚の体を労った。
 通常も按摩とはこのようにする筈だ。その人の疲れが取れて、十分緊張が解れた頃に、核心に触れていき発散させて終わるもの。触れたくは無いけどなぁ、と耀は漠然と思ったけれど、この祈りが届いたのだろう、作戦は驚く程上手くいった。
 揉まない部分をしっかりと保温したおかげもあるのだろう。血行が良くなって、暖かくなった体は素直なものだ。特に何をしているようにも見えない人だけど、姿勢も良くは見えなかったから、覿面(てきめん)だったのかも知れない。瑞波の指示も的確で、酷すぎる部分は祓ってくれたようである。そうして体の重たい部分が軽くなった所為もあるんだろう。
 ぐぐぅ、と気管が狭まる音がして、ぱっと顔を見合わせた二人であった。揉んでいた部分に布団を引いて、灯りを消すと、火鉢に炭を足す。どうか起きませんように、と祈る気持ちで部屋を出たが、この祈りも届いたようで無事に小屋へと戻れた耀だった。
 物置と化した小屋の中からは火鉢も発掘できていて、お師匠様が持たせてくれた火鑽(ひきり)を使って火を起こす。炭は無いから枯れ木になるが、温まりたい気分になった。多少、野焼きの匂いがしても、一晩くらい気にならない。
 怒っていた瑞波も穏やかな顔になり、これなら会話を持てるだろうか、と、話し掛ける耀だった。

『瑞波、助けてくれて有り難う』
『いえ。あのくらいなら。貴方の体が無事で何よりです』
『うん。そう、それでさ。確認しておきたい事なんだけど』

 はい? と返す瑞波は、姿勢良く座って見える。床掃除をして綺麗にしたら戸口に立つのをやめてくれ、一応、座ってくれるようになったのだ。
 半透明な神様は、真っ白な着物を折って、綺麗に鎮座してくれている。凛とした目鼻立ち、上品な口元と、女性よりも美しい男神様の様相だ。首元に重なった着物にほつれは見当たらず、禁欲的で清楚な様をありありと見せてくる。およそ人の子が行うような情事など受け入れない顔をして、その実、この男神様は、自分と何処までいきたいのだろうか、と。

『瑞波はさ』

 はい? という、綺麗な顔を困らせたい訳じゃない。
 けれど、確認しておかないと、困った事になるような気がする。

『瑞波は俺が他の男に抱かれるのを見るのは嫌なんだよね?』

 にこ、と微笑する男神の顔が、引き攣ったのを見逃さない。

『俺もあれは嫌なんだけど、この先、どうなるか分からないし』
『っ!』

 耀……! と視線に込められたような、強い気持ちを受け止めて、分かるよ、俺も嫌だしね、と、念入りに二度、口にする。

『でもさ。蹴られるのもそうなんだけど、もしかしたらこの先に、逃れられない時が来るかも知れない訳だ』
『っ……』
『その時に瑞波がさ、俺の事を許せるか────』
『…………え?』

 人とは交じり合わない、神とも交じり合わない、流石の瑞波でも、耀の質問には疑問を呈す。普通、そこは耀ではなくて、相手の、悪い事をする人間を、許せるか、とくる筈だ。

『耀の事なら許せます』

 当然だ。だって、耀は、被害を受ける側だから。迷惑する側なのである。どうしてそれで許せないと口にしなければならないか。

『本当に? そういう状況を甘んじて受けるしかない、か弱い俺を、瑞波は心の奥で許せるか?』
『…………えぇ』

 呆(ほう)けた顔と声をして、返す瑞波の事を見て、耀は少し黙った後に、強い視線と言葉で返す。
 解っていないと解釈したから、念入りに語るのだ。

『瑞波……俺はな』

 見た通り、体は子供である。
 そしてこの子供の体は、瑞波が思うより弱いものだ。

『大人の力で簡単に潰れるし、折れるし、自由を奪われるなど、あっという間になされてしまう』

 沈黙する瑞波の前で、耀は淡々と語るのだ。もう少し大きくならないと、俺は大人を下せない、と。

『だけど、もしかしたらその前に、命を落としてしまうかも。そうした時に人を恨まず、お前を待たせる俺の事を、果たして瑞波は許せるか?』
『…………』

 瑞波は綺麗な視線を落とし、『冥土へ行ってしまわれるのは、嫌で御座います……』と。

『もちろん俺も努力はするさ。だが、万が一の場合もある。その時、俺はお前の前で、命を落とす事になるだろう? 人を恨まず待てるか? 瑞波。俺は一度でお前と同じ、神に成れるとは思っていない』
『っ……』

 無駄に脅して泣かせるつもりは無いのだけれど、耀が大事だと思う部分は此処である。泣きそうな瑞波を見ると、透き通る頬へ触れていき、中腰になった耀は、薄く唇へ触れていく。

『少しで良いから考えておいて欲しい』

 瑞波は泣きそうな事を忘れた顔をして、目をまん丸にしたようだ。

『あ……あの……あ……よ、耀……?』
『触れられなくて御免な? いつかちゃんと出来たら良いな、キス』
『っ……!』

 細い指先が形の良い唇を隠して行って、真っ赤になった顔を俯け、恥ずかしそうにした瑞波である。これが耀の師匠も恐れた無意識の”男”の部分だが、触れ合う事も出来ないくせに遺憾無く発揮された才能は、繊細な話を受けて落ち込むだけの瑞波の胸を、急激に刺激して色めきだけを与えてしまう。
 そんな事をされてしまうと許すしかなくなるが、おやすみ、と語った童子は瑞波を置いて眠ってしまうのだ。彼は暫く胸を揺らして、酷く狼狽えていたけれど、眠った小さな人の子の横で、同じように小さく目を閉じた。

 もしかしたらそれも一つの予感だったのかも知れない。

 夢の中で瑞波は恥じらい、恥じらいながら白い着物を解いていく。触って下さい、と、虫の鳴くような声を出し、耀の大きな掌を白い肌へ触れさせた。夢の中の大人の耀は、それなりに”どきり”としたようだ。禁欲的な男を暴く、昂りも知っていく。
 何処までやったか知れないが、ふっと目を覚ました耀だ。近くで目を閉じている、瑞波の顔を覗き見た。顔を見てから苦笑を零す。今のは瑞波の願望だ。
 穢れなき寝顔を見せる目の前の男神様は、これでいて耀との目合ひ(まぐわい)を、楽しみにしてくれているらしい。
 くっ、と笑って伸びをする。
 今日も朝から掃除をするが、もう少しだけこの生活に、耐えられるような気になった。

 良い気になったものを落とされるようにして、耀はこの日、一番の、理不尽を受ける事になる。

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