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君と異界の空に落つ2 第7話

 何が引き金だったのか、その時は分からなかった。
 いつも通り朝の掃除を終えて、朝食の手伝いに厨(くりや)へ行った。
 はっとした顔の英章(えいしょう)は、「お前、大丈夫かよ?」と言ってきたけど、何がです? と耀が返すと口ごもる。分かっていたけれど、敢えて惚(とぼ)けた耀である。瑞波の可愛い部分を知って、むしろご機嫌な様子であった。
 体も辛そうに見えないし、何処となく機嫌が良さそうなのだ。英章は”何も無かった”と昨晩の事を予想して、それでも気になるから「昨日、どうだった?」と耀に聞く。

「昨日ですか? えっと……和尚様が、経文の事を教えて下さって」
「他は?」
「他?」
「つまり……何か……気持ち悪い事されなかった?」
「あぁ。それが和尚様、途中で寝てしまわれて……」
「はぁ? 寝たの? あの人が?」
「按摩して差し上げて……それでいつの間にか……です」
「あんま……?」
「肩揉みですよ。腰とか、足とかも揉みましたけど」
「は? えぇ……? はぁ……? お前……なんだよそれ、狡いだろ……」
「え?」

 聞いた英章の方がぶつぶつと文句を言っていて、少しだけ”あたる”ように、食事を作る手を怒鳴ってきたが。蹴られるよりも怒鳴られる方が格段に楽なので、すみません、分かりました、はい、と返した朝である。
 朝餉に出てきた和尚はすっきりとした顔をして、耀の姿を収めると、昨日は良かった、と口にした。珍しく曇りの無い笑顔で言うもので、訝しく思った兄弟子達だ。片付けの際もきびきび動く、耀の尻や足腰の具合を知ると、不思議に思った顔をして英章を捕まえた。勿論、耀を日々の掃除に追いやった後である。
 聞かれた英章は耀に聞いた事を教えてやって、聞いた二人の兄弟子は面白く無さそうな顔をした。
 面白く無かったのである。
 それは率直に腹が立つ。
 どうしてあの童子だけ、逃れられると思うのか。
 二人の兄弟子は、間違いなくそこで歪んだ。あれで和尚は自分の背丈と同じになると興味を失うらしい。そろそろ英章も背が並ぶので、和尚は次を欲しがった。そこへ修行僧が丁度現れ、新しい童子を置いていく。何の相談も無かった事も腹立たしくはあるけれど、文句を言える立場じゃ無いので苛立ちはそちらに向かうだけ。
 果たして、あの修行僧は知っていたのだろうかと思う。知っていて置いていったなら鬼か何かだと思うけど、自分達と同じ思いをするなら、置いていかれた童子には、少しは同情してやれる。一人分の食べ物が減るのでそれが面白くないけれど、等しく不幸を背負うなら、殴るくらいで許してやれる。
 英章と同じように。同じように。同じように、だ。
 まだ名前も覚えていないが、あいつは何処にいるのだろう。鬼気迫る気配で去っていく二人に対し、怖気を感じて黙った英章だ。
 その時、耀は言いつけられた掃除のついでに本殿に居て、殿、と言うより堂だけど、そこの掃除をし始めた。せっかくだから次を聞きにいく前、仏像を綺麗にしようと考えたのだ。ついでに瓔珞の埃も綺麗にしたくなったから、高い踏み台を持ってきた。
 一番綺麗な水の時、仏像のお顔を拭いてやり、頭から首、首から下へと拭いていく。思った通り凹凸や見えない場所の埃が酷く、川の水があっという間に濁るのだ。それでも最後、足元くらいは拭けそうだったから、今日はこれで最後と思い、裏の方まで綺麗に拭いた。次は瓔珞……と思って水を変えようとした時に、『耀!』と近くの瑞波が叫び、汚れた水ごと吹き飛ばされた。

「いっ……」

 呻いて起きようとすると、頬に熱いものが掠った気がした。
 熱いと思ったのは兄弟子の足であり、掠った訳ではなくて、綺麗に足蹴りが入ったそうだ。耀には理解出来なかったけど、見ていた瑞波の言である。

『耀!! 耀!!』

 子供の体はお堂の端まで吹き飛んで、蹴り上げられたと理解したのは浮遊感があったから。嘘だろ……? と考えながら自分の体が止まるのを待つ。口の中に血の味が広がって、くそ、と悪態をついた耀である。だが、それも束の間に、上に乗られた感覚があり、反射的に顔を覆う事しか出来なかった瞬間だ。
 容赦無く殴られるのを、二、三発耐えた後、腹に重たい一発を入れられた。肋じゃなくて良かったと思う。口の血が混ざった胃液のようなものを吐き、手を止めた兄弟子へ和尚の怒鳴り声がした。

「何をしている!!」
「…………」
「…………」

 陽岬(ひさき)と尚路(しょうじ)は動きを止めた。

「大事な私の弟子に……!! 何という事をしてくれた!!」

 二人は和尚を冷たく見ただけで、顔を合わせる事もなく、お勤めに出てきます、と居なくなる。

「おぉい! 英章! 英章!! 早く来い!!」

 和尚が叫ぶ声を遠くに聞いて、耀は少しだけ目を閉じた。
 大人の腕に殴られたけど、力仕事はしない手だ。重い一撃も、筋力の少ないものが放つ手で、彼の胃を刺激しただけで、破裂する程のものじゃない。それは浄提寺で耀が風雅(ふうが)と、綾世(あやせ)と共に遊んだ成果であった。境内の山を駆け、木を上り、一枚岩を腕と腹と足の力で上った成果である。まだまだ子供の体をしているが、二人の兄弟子と英章の腹よりは、余程筋肉がついていたのだ。

「げほっ……げほっ……」
「どうしました? 和しょ……え?」
「陽岬と尚路にやられた……! 薬が無いか探してくるから、口の血を濯いでやれ!」

 はい……! と英章が返す前、和尚はあたふたと自分の部屋へ向かって行った。

「おい! 耀! 大丈夫か?」
「んっ……ちょっと、頭が、くらくらします……」
「楽にしてろ! 俺、水、取ってくるから……!」

 ばたばたと駆けていく英章も居なくなると、『耀! 耀!!』と駆け寄ってきた瑞波である。

『酷い! あぁ耀! わた、私はどうすれば……っ!』
『ん……待って、瑞波……俺もまだ、自分の状態……分かって、いないから……』

 戻ってきた英章が耀に水を含ませて、耀は口を濯ぎながら、こっちは大丈夫そうだな、と考えた。口の中の血は滲んだままだが、舌で触れる範囲には、欠けた歯は無さそうだったから。
 奥歯で頬の内側をざっくりやったから、血はもう少し止まらないだろうが、そのうち治る。次は腹に手を当てて、具合を確かめた。触ると痛いが裂けてはいない。刃物じゃなくて良かった、と、深呼吸して”内(なか)”を確かめる。
 筋肉痛のように内側の”引き攣れ”はあったけど、呼吸を何度かしてみても、内の異変は感じなかった。体が重くなる事も無く、押しても表面だけの痛みのようだ。骨も無事で、四肢も動く。レントゲンもCTもない時代、駄目な時は駄目だろうけど、と、冷静に考えられる頭も無事だった。
 瑞波は相変わらず横で取り乱して見えるけど、そちらに声を掛けてはやれず、もどかしい気持ちになった耀である。和尚も部屋から戻ってくると、手に持った何かの蓋を開け、耀の唇に付けようと自分の指を伸ばしてくる。

「馬の油だ。付けておけ」

 無いよりはマシだけど、少し怖かった耀である。井戸の水も川の水も慣れてしまったものだから、余り気にならなくなったけど、怪しいものが多い時代だ。後世にも残るほど優秀な馬油だろうが、衛生状態という意味で怖さは拭い去れないと思う。
 それに油だし……と思った耀は、別の意味でも少し震えた。とはいえ、頑なに拒否する理由も無くて、されるがままに油を塗られた少年だ。それで唇が切れていた事を知り、どれだけ自分が攻撃されたのか改めて考える。
 憤った様子の和尚は「今日はもう何もしなくていい。部屋で休んでおれ」と言い、耀を下がらせようとしてくれる。

「彼奴ら……帰ってきたら、目にものを見せてやるわい……!」

 穏やかじゃない言葉を吐いて、去っていく人を見送るのみだ。

「おい……本当に大丈夫かよ?」
「はい。まだ、くらくらしますが……骨も折れていないみたいですし」
「…………肩貸す。部屋まで連れて行ってやる」

 どんだけ殴られたんだよ……と、英章も引いた雰囲気だけど、直前の兄弟子の様子を知っていたから、もしかしたら自分の所為か……? と、気に病む部分もあったようだ。
 英章に肩を借りて、耀は充てがわれている小屋へ戻った。
 日々の労働で疲れていた事もある。ちょっかいと理不尽な暴力と、彼がしなくてもいい事や、受け取らなくていい事が、積もり積もった日々だったから、今は休んでも良いだろう、と。彼自身、許せた事もあり、泣いている瑞波へと『少し、眠る』と短く伝え、深い眠りについていく。
 自分の体が未熟な事や、自分の力が不足している事が、悔しいような悲しいような気持ちを掘り起こす。
 今まではそのような場所に居なくて済んだだけの話。山を降りるという事は、こういう俗世に塗れる事だ。
 俺たちは山を降りたら奪われるだけ、と誰かが言った。
 金品や肉体や、健康な体、時間や、心。健やかな生活も奪われるだけのものになり、なんて悲しみに暮れた世の中か、と、時代の嘆きに呼応する。
 自分を大切に思ってくれる男神さえ、泣かせてしまう己の無力。
 たったひとりの男神さえ、幸せにしてやれない自分の無力。
 あぁ、こうして人間は、落ちていくのか、と耀は思った。
 自分ではどうしようもない理不尽に遭った時、逃れられない困難に遭い、全てを奪われてしまった時に……人の心は傷付いて、傷付いた場所に魔が入り、ならばこちらから奪ってしまえ、壊してしまえと、思うようになってしまうのか、と。



 Aーーーと音階が降りてくる。
 aーーーのようでlaーーーに重なる調律音が。
 440Hzから442Hzの音は、不思議な感覚を齎してくる。
 気付きを促すようで、高い場所があることを知らせる音は、夢の中の耀の意識へ働きかけた。
 黄金の旋律が滝のように降りてくる。
 何もない空間に、金の糸が降りてくる。
 壁だと思ったそれは、尊いものを隠すヴェールだ。
 黄金のヴェールの先に、如来や菩薩や明王が座し、天が無表情な顔をして彼の事を見下ろしている。
 Aーーーの音は消えない。彼らはそこに居るだけだ。
 耀に何かを与える事も、言葉を伝える事もしない。
 ”違う”と言われた気がした。
 お前は”違う”けど、私達に連なるものでは無いけれど、私達は力を貸すし、お前は使う事が出来る、とも。
 耀はただ見つめ返していただけだ。
 有り難い、と、膝を折る事もなく、全く意図が分からぬ、と、否定する事もなく。在るが儘、そこに居るまま、礼を言う事もなく、礼を言われたい訳でもなくて、互いに対峙していただけだ。
 理解すべきという意思も感じなかった。彼らはそういう事を、彼に望んでいる訳ではないのだ。それを理解する人間だから、彼の前に現れたのだろうと思う。
 私達は此処におります。
 あなた方は其処におります。
 ただそれだけの事なのです。
 それだけの事なのです────と。



『瑞波…………』

 眠りから覚めた少年は、痣が浮かんだ顔のまま、近くに居るのだろう男神の名を呼んだ。

『耀……!』
『うん。瑞波。ねぇ、俺、どれくらい寝てた……?』

 小屋の中は真っ暗だった。
 夜だろうけど、確証が持てない。
 起き上がったら体は痛むし、まだ口の中も血の味がする。

『夜中ですよ……大丈夫なのですか……?』
『うん。一応、大丈夫……いてて』
『耀!』
『大丈夫、瑞波。それより泣き過ぎて腫れてない?』

 暗闇に薄ぼんやりと、白く浮かぶ瑞波の顔は、そもそもの薄さもあって、いつも以上に儚げだ。
 耀が心配した通り、目元はうっすら腫れている。赤く染まったその場所を、彼は何度も擦ったのだろう。昨日、深い話をしていて良かった、と耀は思った。急にこれでは今よりずっと、瑞波は落ち込んだだろうから。
 今回は怒りに任せるよりも、悲しみがずっと深くあったらしい。祟り神にならなくて良かったと安堵する傍に、こういう顔もさせたくないな、出来れば、と思った耀だった。

 寺は静かな様相だ。
 少年はふらりと立ち上がる。
 止めようとした瑞波を宥め、灯りを求めて外に出る。
 視線の先のお堂には、時間に見合わぬ灯りが見えた。
 煌々とする灯りだが、その場所が静か過ぎるのだ。
 耀は誘われるようにして、そちらの方へ歩み寄る。

『いっ……嫌です、耀……! 行きたくありません! そちらには行きたくありませ……!』

 瑞波の叫びを背後に聞いて。
 耀は血に塗れたお堂を……塗れたお堂の中へ行く────。

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