君と異界の空に落つ2 第54話
それから耀は手際良く、善持に聞いて禊(みそぎ)をやった。選ばれた子供にさせるらしい。要は”いつものお湯入り”。あのお湯は善持の先祖が生贄になる子供の為に作ったらしく、湯になど入った事のない子供等に、少しでも良い思いをさせてやろうと。勿論、体の汚れを落とす意味もある。別に禁止にしている訳では無いが、集落の人間は、そのお湯が何であるかを悟るらしい。遠慮するのか忌避しているのか。だから今までその場所で、誰かに会う事が無かった訳だ。
勝手知ったる場所だから。或いは別の意味があったのかも知れない。善持は”場所は知っているだろう”という体で、朝から耀を一人で禊に行かせた。昼前に帰ってきた彼の姿を認めると、困ったような憤るような顔になったのを見逃さない。俺は平気ですよ、善持さん、と耀が笑って掛けたなら、悔しそうに泣きそうに「分かっとる」と返すのだ。
食事も”いつも通り”だそうだが、集落の子供にしてみたら、善持の飯は豪華だろうと思うのだ。ふと、さえが呟いた”どうせくれてやるのなら、神のように祀ってやれば良いのに”に通じるような。それを善持が少しでもしてくれていたのなら、迷わず逝けたと思えるというか、だから人霊が居ないのだろうか、と。どのみち耀には視えないものだが、そうであって欲しいという願いが宿る。自分が集落の為に神の贄になる事を、全員が理解して、納得出来たとも思えぬが。
あれから子供の覇気に呑まれた集落の男達は、善持の喧嘩混ざりの念押しを聞いて、たじたじという様相で帰って行った。耀は集落の贄の習慣を変えようと、書物を読んで勉強したり、これから名主に聞きに行ったりと、色々と動いてくれるつもりだったのだ、と。それをお前等が台無しにしたのだ、やっと解放されたかも知れぬのに。失敗しても誰も文句は言えないぞ、これから先も永遠に、子供をくれてやらねばならぬのだ、と。脅しも少し入っていたか。善持の本気の怒りを聞いて、すごすごと退散したような気配もあった。
それがどちらに転ぶのか分からぬが、耀は”これも運命だ”、転機なのだと考えて、機嫌を悪くしたままの瑞波を静かに見守った。
終わるかも知れないのは人間の耀の方なのだけど、明らかに不安がっていて情緒不安定なのは瑞波の方だ。本当は残りの時間、夕刻を迎えるまで、瑞波と絆を深めたいと耀は考えていたのだが。瑞波はそんな余裕も無さそうなので、どうにか機嫌が上向くまでを見守るしかなかったのである。
禊が済んでしまえば”最後の食事”まで、特にやる事が無いので久々に座禅した。昨日、落とした瓔珞も元に戻して、非礼を詫びながら瞑想をする。もし、命を落とした時は、迷わず次へと向かえるように。神に成る目標を持つ耀には、止まる時間が惜しいのだ。出来るだけ瑞波をひとりにしないで済むように。そうでないならお力添えを下さい、と。純粋に祈れた耀だった。
一つ前の寺での事だ。今でもよく覚えている。降り注ぐ光の雨の奥、並ばれた天の御姿を。彼らは自分に何と言ったか。ただそれだけの事、と言った記憶だ。私達は此処に居ます。あなた方は其処に居ます。ただそれだけの事だと言って、耀を諭してくれたのだ。道は違えど力は貸せる。そう、温かな想いを寄せて。
師匠に習った印を組み、真言も一通り唱えたか。身、口、意が大事なのだと隼(しゅん)が先輩から聞いてきた。印の結び方、読みを覚える、気持ちを込める事、そればかりではいけない。日頃の行いが大事なのだ。
そう考えたら少しばかり、耀は懺悔したい気持ちになった。もう少し栄次に優しくしてやれば良かったか、と。後悔の念がぽつりぽつりと浮いてきたのだ。耀は十分優しかったが、他人から見た状態と、自分から見た状態とでは差が生まれる事がある。自分は然程(さほど)優しくない、と思っている耀だから、もう少し優しく出来たかも……と自らの行いを恥じたのだ。
浄提寺ではどちらかというと、遊んで貰う方だったからか。自分が面倒を見ていたと思うのは一人だけ。柳衣(やない)、物静かな柳衣は穢れに呑まれて死んでしまった。同じ歳という事になっていたのは葉月(はづき)と篝(かがり)。篝の方も同じように。あとは年上の丈弥(じょうや)が亡くなった。風雅(ふうが)と綺世(あやせ)は一つ上、その上が紅寿(こうじゅ)と勇士(ゆうし)である。途中から来た樹貴(たつき)も同じ。まとめ役が隼だった。
皆、良い兄さんだったと思う。彼等なら栄次をどうしただろうか。柳衣はおどおど付き従ったか。葉月も何だかんだで遊んでくれただろう。篝は……覇権を巡って争ったかも知れない。風雅は手を出されたら同じだけ痛めつけただろう。綺世に挑む勇気はあったか。それはつまり紅寿にも。男であるには艶やかな、華を持っていた二人である。樹貴はどうしただろう。問答無用で叩き伏せたか。隼と丈弥と勇士は三人、面倒臭そうにしながらも、それなりに栄次の事を面倒見てくれたかも。
あ……と気付いた耀だから、目を閉じながら微笑した。
何だ、案外、案外と……俺と変わらぬ対応じゃないのか、と。
風雅と樹貴に至っては俺よりも怖そうだ。隼もあれでいて規律を乱す奴には、容赦無い印象だったから。俺より怒られたかも知れない。笑いが込み上げる。
懐かしい、懐かしい記憶である。三人も居なくなるなんて思わなかった。沢山遊んだ友達だから、悲しさと寂しさが胸に残る。僕の事を忘れないでね、と囁いた柳衣の顔。これは何だ……? と困惑したまま逝った篝。丈弥は流石、兄さんだった。覚えていろ、と耀に語った。俺の死を無駄にするな。忘れるな、と。
そろそろ盆の季節である。少し早いが、良いだろう。何せ、俺は今夜が山場だ。一度目の生を生きるか、終えるか、の。
だから耀は経をあげた。まだ”盆”の感覚も薄い時代だろう。けれど、浄提寺では当たり前に供養をしたし、この時期が最もあの世に近い事、力ある人達が集う場所だったから、当たり前という感覚でお勤めをしていたか。もう一つ、あの特殊な寺では、凪彦への祭事を取り行っていたのだが、何を思い出してみても”懐かしい”の言葉が浮かぶ。
魂(こん)を呑み込む異界の神は、今は耀の中に居る。いつか、冥土に渡った彼等へ、それを返してやらねば、と。魂を呑み込む異界の神を、呑み込んだ耀は考えた。どうか、柳衣も篝も丈弥も、魂魄揃って来世を生きて、今生では成し得なかった何かを成し遂げられるよう。幸せになるように、と、心を込めた。
ついぞ瑞波の機嫌は直らず、耀の瞑想も終わる頃。懐かしい顔ぶれを思い出した所為だろう。心の中で丈弥が”ふっ”と、笑った様な気がしたのである。
仕方無い奴。でも、ありがとな────と。
はっと目を覚ました所に、準備が出来た善持が言った。
「ヨウ、時間だ」
「はい」
「本当に飯は食わずとも良いのか?」
「えぇ」
もしかすると大立ち回りをしなければいけないかも知れないですし、帰ってくるつもりでいるので、その時に頂きます、と。
本当に肝の据わった子供で、善持の顔は泣き笑いになった。
耀は大口を叩くような子供じゃないから、それは確信に近い帰宅の知らせなのだろう、と。でも、戻って来られた子供は一人も居ないのだ。善持の爺さんの爺さんの、爺さんの爺さんまで遡っても、誰一人として存在しないと思うのだ。居たら語り継がれている筈だから。無いというのはそういう事で、いかに耀が優れた子供でも、無理なものは無理であるように。現実的なものの見方を貫いている男なのである。
耀を信じていたいけど、無理だろう、と心で嘆く男だ。集落の昔馴染み達に随分と当たったが、後悔はしていないどころか、耀の後を追わないように、首を括らないように、耐える時間への心づもりだけ。
二人は空が茜色に染まる前、裏山の祠を目指して登り始めた。善持の手には油を浸した布を巻いた棍棒が。揚げ物をする為の油だが、この時にも使うらしい。しっかりと光る目印を見て、集落の人間達はどう思ったか。まだ明るい時間であるので、それ程目立たぬだろうけど、気になった者達がぱらぱらと視線を向けていた。
耀は姿勢良く善持の後ろに付いて登る。神の気配は未だしない。後ろの瑞波も黙ったままだ。あっけなく祠に着いた時、そこでの作法を善持に習う。
「特に決まりは無ぇんだが、社の中で待ってるように伝えるのが慣わしだ」
「分かりました。この社に入って、祠の隣にでも居れば良いですか?」
「そうだな、それで良いと思う」
あとはこれだな、と、濁酒を。
「怖かったら飲めって渡すやつだが、お前ぇはどうする?」
「では遠慮しておきます。判断が鈍ったら困るので」
「はっ。本当に、立ち向かうつもりみてぇじゃねぇか」
「つもりじゃなくて、立ち向かう予定です。無難に話し合いで済めば良いなと思うんですが」
「────済まなかったら、どうするつもりだ?」
予想外の問いだった。
善持が真剣そうに聞いてくるから、耀はあえて「うぅん」と笑い。
「その時は俺も考えます。切るしかなければ、切るまでですが」
と。
ひゅっと息を呑むように、神殺しか、えぇ? と呟く人だ。
「切るもんも持ち合わせて無ぇくせに……ったく、本当にお前はよ……威勢だけは良いんだからよ……」
「善持さん……」
「ちくしょう……涙が止まんねぇ……無事に、無事に降りて来いよ……?」
目元を腕で拭った人は、体を反転させた。
それから重い足を引き摺るように帰途に着く。
耀は彼の後ろ姿が見えなくなるまでを、無言で社の中から見守っていた。
四方を囲った、不思議な形の社である。中央にはそれらしい祠があるが、名前も何も刻まれない。誰にも誰が鎮座するのか分からぬ造りなのである。鳥居らしい鳥居が無いのも、欺くにはぴったりだと思う。ひっそりと隠れるように、土地の人間だけが知るような。
『さて瑞波……神様は、いつお出ましになるだろう?』
少しおどけた耀の口調に、瑞波は重い口を開く。
『分かりません。今だって、私には何の気配も読めない』
『俺もだよ。本当に居てくれれば良いのに、って感じだな』
『妖怪だったらどうするのです?』
『瑞波にどうにかして貰ったら、最後は俺が切ろうと思う』
凪彦に貰った太刀で。
素振りくらいしか修めていないが、太刀を振るう事に忌避は無い。耀は落ち着き払った顔で、瑞波へと呟いた。
『もし……もし本当に、この地に居るのが神だったなら』
『うん』
『豊穣の神を殺すのは、余りお勧め出来ません』
下手をしたらこの土地が痩せこけてしまいます、と。小さな、か細い声を聞き、そうだな、と返した耀だった。
『そりゃあ勿論。切らないに越した事は無いよね』
『でも、でも……どうしても……切らねばならぬ事になったなら……』
ふっと俯く瑞波へと、触れられぬ手を伸ばした耀だ。
『瑞波、その時は、お前は目を閉じていろ────』
強い男の声がして、息を呑んだ瑞波である。
っ、と息を呑む瑞波へと、触れられぬ唇を触れさせる。
『その業は俺だけが背負えば良い。だからお前は目を閉じていろ』
『よ……耀……』
い、いいえ、と。
私も共に……と口にしようとしたその時だ。
「おい! おい、ヨウ! お前無事か!? 未だ無事か!?」
此処に居る筈の無い人間の声が響いて、急に現実に引き戻された感覚がした二人である。
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