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前略

「世の中が前を向いているシーズンになんなんだ」と思ってしまえる私は、言われた通り薄情なのかもしれない。同じ時間が流れていても、その感じ方が必ずしも同じではないことはきっと分かっているはずで、それでもどうしようもないことに押しつぶされていることも理解しているつもりだ。

これは私のエゴでしかない。
それでも私は、私だったら、生きていてほしいと思うし、生きることこそが背負うべき十字架だとも思うのだ。たとえ誰かがそれを許さなくても。

主語は、あなたであり、私である。

空白

大学生までは、1年が一冊の本のようだった。春夏秋冬、1年の中であらゆるイベントがおこって、時期が来れば新しいステージがやってくる。自分の中に積み上がっていく本を読み返すことも容易だったように感じる。

社会人になった途端、急に本が厚くなった。大人たちは、「ここで一旦終わり」という区切りを一体どこで迎えるのか。好きな人の入れ替わり、転職、結婚、出産、死別。冠婚葬祭なんて四字熟語で表せてしまうくらい、少ない章で構成されるであろう人生の隙間を、惰性で生きないようにすることはとても難しい。積み重なっていく実感がないまま過ぎる日々に向き合うことは、息切れしそうになるくらいだ。息抜きのポイントもなんだかよく分からないし、振り返っている暇はないと言いながら、振り返るべきものから目を背けているようにも感じる。

人間が病むのは暇だからだと思い続けてきたが、若い人が青く柔く悩んで苦しむことは、時間がたくさんあるからではなく、短い本の中に空白や汚れた部分を作ることが不安だからなのだろう。30年にも満たない人生の中で2〜3年という期間を空白にしてしまえば、進む世界に焦り、不安を抱き、ついには誰のことも理解できなくなっても当然なのかもしれない。置いてけぼりにされたような孤独は、痛いほど分かるつもりだ。他人と比較すれば、自分だけが何も進歩していないような気持ちになって、苦しい。

でも、埋められない空白をそもそも無理に埋める必要があるのだろうか。孤独や罪悪感に押し潰されても、空白は埋まらないし、誰も何も代わりにはなれない。何かに、誰かに、依存してしまえば一時的に楽になれるかもしれないが、失うことを恐れながら依存することは破滅に近い。

愛しく大切に守ってきた空白は、空白のまま愛してあげても良いと、私は思う。時間が経てば、空白に見えるそのページにも景色が見えてくるかも知れないから。

しこり

空白だった期間で、できないことは増えたかもしれない。怖いことも増えたし、今でも誰にも話せないことだってたくさんある。でも、しんどい気持ちを周りに発し続けながらある一点に留まって生きることは、誰のことも幸せにしない。

知らないことは怖い。
その怖さを少しでも埋めるために、人は想像するのだ。

それは、必ずしも良い方向に向くとは限らない。
自分が知らないことや噂で聞いた程度のことを鵜呑みにして、一時的な感情を癒すために真実だと思い込んだ想像で他人を攻撃してしまうこともある。多かれ少なかれ、きっとそんな無意識な加害経験は私たちにだってあるだろう。

偉そうに、たいして知りもしない誰かを「人殺し」と罵る人間が、一体何を知っていたというのだ。知らないから仕方がないと何度も自分に言い聞かせて我慢してきた。一生続くんじゃないかと思うくらい、苦しかったこともある。どんなにその理不尽を引きずったところで、言った側はもう覚えてもいないことが、今でもたまらなく悔しくて涙が止まらなくなることだって少なくない。

「気が動転していたから」
「よく分からなかったから」
「なんとなく」

上っ面の正義を振りかざす人間の、そんな適当な理由で人生が壊されていいはずがないのだ。つらくても苦しくても死にたくても、そんなものに負けてはいけない。これは強さじゃない。意地でありプライドだ。屈してしまえば、守りたいものはきっと守れなくなる。

エゴ

忘れられないなら忘れなくて良い。
許せないなら許さなくて良い。

他人にどんなに面倒臭がられても、自分自身のことをどんなに嫌いになっても、孤独で気が狂いそうになっても、どうして生きていかなきゃいけないのか全然わからない日々を生きていくのだ。誰かのために傷ついて、悩んで、涙を流せる人間がちゃんと幸せになれるということを、当事者が肯定せずして誰が肯定してくれるのか。

私は、あなたに生きていてほしい。
またいつか笑顔で会うために。

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