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蛙化現象

 TikTokをはじめることにした。

 というと、私がTikTokで書籍の紹介をはじめたりするのではないかと心配する向きがあるかもしれないが、今のところ何かを投稿する予定はない。

 もしダンスに堪能であったなら、髪の毛をさらさらにしたり桃色に染めたりしてBTSの踊りを披露することで人気TikTokerとして名をなす可能性もあったのだが、未経験の私にはややハードルが高いように思われ、それで見物するのみにとどめることとした。

 実は数年前にもTikTokをダウンロードしたことがあるのだが、そのときはおすすめ欄に出てくる、女子高生が徒党を組んでリズムをとったり、足を上げたり下げたり、セリフに合わせて姿勢を作ったりする様子を一日中眺めてしまい、なんらの仕事も手につかず、まだ月初めにも関わらずデータ通信量が上限を越えてしまったため、自分に絶望してやむを得ずアプリを消去したのだった。

 それ以来のTikTokである。

 なぜ再開したかということが気になる方がいるかもしれないが、これは勉強のためである。嘘だと思うかもしれないが、決して疚しいところはなく、勉強が必要だと感じたのである。

 若者の言葉が分からないのだ。

 年長の先輩方からすれば、私はまだ若者のくくりに入るだろうが、若者からすれば、わたしは若者ではない。明らかに世代間ギャップがあり、若者の言葉がわからないことで、私の思春期診療は危うくズレたオッサンがおじさん構文であれこれ助言をするような地獄の外来になりかけていた。

 この事実に気づいた私はJO1やSnow Manといった若者に人気がありそうなグループのメンバーを覚えて歌唱の訓練をしたり、コムドットという人たちのYouTubeを視聴するなどして若者感覚を鍛えようと努力をしたのだが、やはり30代には30代の感覚というものがあり、目を醒ますと私はカラオケ店で天体観測を歌唱していた。

 このままではいけない。私はただちにTikTokをダウンロードして、いつ入店したのかも不明なカラオケ店を走り出て都営大江戸線に駆け込んだ。駆け込み乗車はおやめください、車掌が私の危険行為を咎める鋭い声を発したが、直後に女子高生が二人飛び乗ってきて、彼女たちが注意されたのだと知れた。

「それでリサも“かえるか”でウチも“かえるか”じゃん」
「あー、わかる」

 今彼女たちが知らない言葉を発した。「かえるか」と彼女は言った。「帰るか」という発音ではなく、「蛙化」という発音である。

 蛙化という言葉から私が連想したのは、TikTokで跳んだり跳ねたりしている女子高生の姿である。あのように音楽に調子を合わせて身体を動かす様子を蛙化というのではないか。しかし、仮にそのような意味である場合「リサが蛙化でうちも蛙化」という発言は意味が全くわからない。いったいどういう意味なのだ。頭を抱えて唸っているうちにいつの間にか眠っており、目を醒ますと私はカラオケ店で天体観測を歌唱していた。

 どうやら私はジェネレーションギャップを感じるたびに、カラオケ店に入店してしまうらしい。いったいどういう身体生理になってしまったのだろうか。気がつくと私はTシャツにジレを着て、9部丈のパンツを履いていた。自分から溢れ出る2007年感にいたたまれなくなり、私は再びカラオケ店を走り出て都営大江戸線に駆け込んだ。

「それでリサも“かえるか”でウチも“かえるか”じゃん」
「あー、わかる」

 どういう意味なのだ。この謎が解けなければ、私はまた30代らしく天体観測を歌ってしまう。殊によってはケミストリーを熱唱する恐れすらあるかもしれない。

 そうか。こういうときのためにTikTokをダウンロードしたのではないか、とようやく気づいて「蛙化」とTikTokで検索をすると、ただちに「蛙化現象」と出てきて、その意味が知れた。

 「蛙化現象」というのはすなわち、女子高生にありがちな、恋愛における、とある奇妙な現象のことをいう。たとえばリサに好きなサッカー部の先輩がいるとする。リサは放課後にサッカー部の練習を網越しに見てアプローチする、といった旧式の方法ではなく、Instagramのストーリー機能などを駆使して先輩にアプローチし、ついに先輩もリサに交際を迫る。

 夢にまでみた先輩からの告白である。旧式の少女漫画などであれば「先輩っ、お願いしますっ、カアアアアアアアアア」と頬が紅潮する音を発しながら喜び、交際に発展するはずのこのシーンで、リサには蛙化現象が起こる。

 急に、先輩が気持ち悪く思えてしまうのである。

 これによりリサと先輩は付き合う前に関係が破綻。あんなに俺のこと好きそうだったのにどうして、、、と先輩は絶望し、リサも「うちってなんなんだろ🥺」と悩んでしまうのである。

 つまり、好きになったのにも関わらず、向こうから好きになられると、相手を気持ち悪く思ってしまう、これを蛙化現象と言う。グリム童話にちなんでつけられたそうだが、「リサ」も「ウチ」も、この奇妙な現象に悩み苦しんでいる。そういうことのようだ。

 実は私も十代のころにこの蛙化現象の経験がある。決して令和のJKに限局した現象ではないのだ。記憶を掘り返しつつ、この現象がなんなのかを考えてみると、空想と現実のギャップの話なのかなと思う。

 すなわち先輩を好き、といっても、それはイメージする理想の先輩の姿(空想)を好きなわけである。ところがその理想化された先輩といざ付き合ってみると、イメージ上の先輩には到底似つかわしくない言動、すなわち食事の仕方がめちゃくちゃ汚いとか、服がダサいとか、そういう現実の側面が登場することになる。通常は、微妙なところもあるけど、でも全体としてこの人が好き、となるのだけれども、イメージの世界の先輩像が強すぎると、なんなのこの人、という空想と現実のズレの悪い側面が強く感じられ、急速に興味を失ってしまうわけである。

 自分の好きな先輩はあくまで空想上の先輩であって、現実の先輩は実際はどんな人か、親しくなるまでは分からない、と思っておくことが重要なわけだが、蛙化現象についての記述が10代から20代前半のTikTokやYouTube、Twitterの投稿に多く、中年の書くFacebookの投稿などには見られないことからも、年をとると自然に現実が分かるのかもしれない。私も自然にこの事実に気がついた。

 謎がすっきり解けたので、得意になってJK二人組に助言でもしてあげようかなと思い近づいていくと、リサが「そういえば“なこなこカップル”が」と、突如新しい話題を始めたので「なこなこカップルとは?」と脳内に新たな疑問が浮かび、その瞬間に私はカラオケ店で天体観測を歌唱していた。午前2時だった。


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