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ナルシシズムはいま

 今週末に思春期青年期学会があって、そのテーマが「ナルシシズムはいま」なのだけれども、私の発表はあまりナルシシズムとは関係がなくて、内科外来における思春期診療を治療構造という視点から考えるというような内容である。

 ナルシシズムといえば、先日のnoteで、突如自分のofficial instagramを開設し、その告知を自分の顔面のどアップの写真とともにしたことを思い出した。

 ところでいま自分は、ただインスタの公開アカウントを開設しただけなのに「official」などと述べることで、あたかも芸能人かのような雰囲気を醸し出したが、これもナルシシズムの問題が炸裂していると言える。officialとは?はにゃ?と通りすがりの不思議ちゃん(JO1のヲタクをしている)に言われてもおかしくないのにそれを誰も言わないのは、皆が優しいからである。

 と、書いて、まだナルシシズムが炸裂しているなと思った。一体どこの誰が無名のおっさんが数回前のnoteに書いた文章のことなど覚えているのだ、というのが正しい理解であって、優しいから突っ込まれないのではない、そのへん、ちゃんと理解しておけよな、と思った。

 さて、さっきから自分は意図せず漏れ出てしまったナルシシズムを、これはナルシシズムです、と名づけることによって、俺は自分のこと分かっているぜ感、を出している。

 このように、自分が露出するのを無限に隠し続けていると、なんというか別の人格というか、そこまでいうのは大袈裟にしても、心の内では「俺はJO1の公式ライバル」と思っているのにも関わらず、口先では「私なんてただのおっさんです」と言っている、というような人間が出来上がってくることになる。

 実際のところは「ただのおっさん」という認識の方が正しいので、そう振る舞っている以上は、世間とトラブルになることはなく日々を過ごせるのだが、実際のところは「ただのおっさん」という現実を認めていないため、脳内では顔を真っ白に塗って髪の毛をさらさらにしたうえで巻き舌でラップをして歓声を浴びている自分、みたいなものを一日中思い浮かべているような状態になってしまう。

(ちなみに急にここで宣伝をするが、『天気予報士エミリ』(群像7月号)のエミリちゃんはまさにこういう人間として描かれているように思います。ぜひ読んでください!<15秒>)

 はっ、私はただのおっさんなのに、またCMかのような雰囲気を醸し出してしまった。

 そう気づいて絶望しながらも、私はまた読書に戻ることにした。いま、まさにナルシシズムの本を読んでいたのである。

 つい最近、今回の思春期青年期学会の大会長の池田暁史先生が訳されたギャバードとクリスプの本である。内容とはまた別に、訳文がとても読みやすいので翻訳された本が苦手な人にもお勧めである。

 それはそうと、こういう学術書を読んでいると、あるところまではセラピスト目線で、そういうクライアントがいるのかーとか、そういうクライアント確かにいるよなーとか、そう介入するのかー一般診療にも応用可能だろうか、とか考えているのに、読んでいるうちにいつの間にか当事者目線になっており、高機能のナルシシストというのはまさに自分のことではないか、しかし、自分で高機能などというのもナルシシスティックな話だな、などと考えている、ということがしばしばある。

 これは別にナルシシズムの本を読んでいるから、というわけではなく、実はわりと色々な書物を読んでいるときに起きていることだなと思う。

 たとえば、“HSP”の本を読んでいるとき、最初はなんだその概念は?などと精神科医として怪訝に読んでいるうちに、自分のことではないか?と当事者目線になっていたり、ADHDの書物を読んでいるうちに、この項目は自分に当てはまる、と当事者目線になっていたりすることはしばしばある。

 通常は自分に当てはまるところだけ強調されて脳に入っていくので、実際はその対象に該当しないことも多いのだが、ついついそういう読み方をしてしまう。

 つまり、書かれている対象について、観察している自分と、同一化している自分がいて、この両者を細かく往還しながら読んでいるのが、意外にスタンダードな読み方なのではないかと思ったのである。

 小説なんかも考えてみればそうである。たとえばこの描写がうまいとかなんとか批評的な目線で読んでいても、主人公に感情移入して最後の3ページが涙でめくれませんでした、みたいなことになることはあるだろう。

 この、観察者なんだか当事者なんだかわからない感じ、という主体で、自分のことなんだか他人のことなんだか分からない人について、学術的なんだか小説的なんだかエッセイ的なんだか分からない書き方で書いた書物が来月発売になる「偽者論」(金原出版)である。

 たぶん、ちゃんと書けていれば、読者にはこの観察者と当事者の往還のなかに身をおきながら読み進める感覚をより増幅した形で味わってもらえるのではないかと思う。

 今日、実は「偽者論」の打ち合わせがあって何時間か話し合いをしてきたのだが、もう少しして発売になったら、「偽者論」について簡単に説明をしないといけない場面が訪れるのだな、ということに思い至った。

 色々要約を考えるのだが、どう切り取っても不十分になるというか、うまく説明ができない気がするのである。読んだ時の体験のなかにしか正解がない気がしていて、まあ早く読んでほしいなと思うわけである。

 カムバまでまだしばらくあるので、このような断片的な情報を述べ続けることしかできないのがもどかしいのだが、

 と書いて、またカムバ、などと述べてあたかも自分がK-POPアイドルかのような雰囲気を醸し出してしまったが、これに誰も激怒しないのは、さすがにこれが締めの冗談だと皆分かるからなのだと思う。



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