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倍速視聴するZ世代

 Z世代と呼ばれる若者が映画やアニメを倍速視聴することが少し前にネットで話題になっていて、とはいえ私は自分がZ世代に該当するかどうかということばかり考えていた。私はZ世代には該当せず、Y世代と呼ばれるらしい。

 とはいえ、私がY世代であるという話題を書くよりも、倍速視聴について書いたほうがnoteとしてはおもろいのではないかという打算が働いて、結局倍速視聴について書くに至った。

 さて、本題だが、倍速視聴をするなんて、最近の若者は一体何を考えているのだ!

 と、怒鳴ってみて違和感を覚えたのは、尾久自身が倍速視聴をめっちゃしているからである。倍速視聴どころか、選択可能であれば3倍速にも4倍速にもしてしまう。なぜか。

 なんか、速く見たいからである。

 正確には、速く見たいというよりは、ゆっくり見ていると注意が他に向いてしまい、内容に集中できない、という感覚がある。

よし子「俊彦さんはアメリカン?」
俊彦「ああ、僕はアメリカンをもらおう。よし子さんは?」
よし子「そうね、わたしは、ふふ、そうそう、俊彦さん、こういう話って聞いたことある?むかーしむかし、エジプトにたいそう美しいお姫様がいました。おしまい」
俊彦「おしまい?」
よし子「そう、おしまい、ふふ、びっくりした?」
マスター「雨が降ってきましたね」
<ザーと窓の外の豪雨がうつる>
俊彦「僕はラッシーを」
よし子「じゃあ私はアメリカンで」
<ザーと窓の外の豪雨がうつる>
よし子「どうしましょう、わたし、こんな雨じゃおうち帰れないわ」
<ザーと窓の外の豪雨がうつる>

 なぜこんなに昭和風の調子なのかは置いておいて、上述のようなシーンがあったとすると、それがいかに名シーンであろうが、後々重要なシーンだろうが、話の展開がなさすぎて、退屈して注意が保てなくなり、気づくとLINEを見たりTwitterを見たり、関係のない空想にふけっていたりする。

 ではどういうシーンならば倍速にせずずっと見てられるかというと、

よし子「きゃああああ」
<よし子、俊彦に突如水をかける>
俊彦「なんだ君は!は、まさか君は生き別れの、、、」
よし子「そうよ、私はあなたの妹」
マスター「動くな!」
<マスター、よし子を羽交締めにし銃をつきつける>
俊彦「やめろ、よし子を放せ!」
バン!
俊彦「よし子おおおおお」
<「次のエピソードを視聴する」>
マスター「動くな!」
<マスター、よし子を羽交締めにし銃をつきつける>
俊彦「やめろ、よし子を放せ!」
バン!
<ゆっくり後ろに倒れるマスター>
俊彦「い、今のは」
よし子「サ、サイコキネシス、、、まさか7人目の能力者がこの町に?」
<どかーんとトラックが喫茶店に突っ込み、黒服黒マスクの男たちがよし子を拉致する>
俊彦「くそっ!あいつらも時間旅行者(タイムトラベラー)か!」

 といったシーンであれば倍速にせずとも見られるし、注意を画面に向けていることができる。

 つまり、強く注意を引くようなことが映像内で次々に展開し続けていれば見ていられるのである。しかし、静かな喫茶店で二人が話している、みたいなシーンでは注意を保てない。よって、倍速視聴をせざるを得ない。

 これを、今度は映画ではなく小説を読むときのことに置き換えて考えると、また違った心理になっている。

 すなわち、小説は、多少もたついた文章でも、内容がぐるぐるしていようとも、ふつうに面白く読める。これは非常に不思議である。

 映像作品を見るときと、小説を読むときでどうしてここまで違うのか、ということを考えてみると、小説を読むときは、ストーリー展開よりも細部を面白がっていて、映像作品を視聴する時はストーリーを面白がっているということに気づいた。

 映像作品、最近はNetflixが多いが、これを視聴するのは私の場合、大抵疲れていてほかに何もできないときや、食事中などである。つまり、集中せずに娯楽を楽しみたいときに映像作品を見ている。

 だから、選ぶ作品もどんどん話が展開するものを無意識に選んでおり「島で出会ったタイキとカナ、二人の甘酸っぱくて、でもどこか哀しい日々を描いた名作」みたいなやつはまず選ばない。なんか展開が遅そうだからである。

 よって、どんどん話が展開する作品を、さらに倍速にして試聴している。

 一方で小説を読むときは、娯楽という感覚は薄い。ちょっと詩人的な立場というか、やや批評的な視点から読んでいるので、ストーリーは面白ければそれは良いことだが、もっと細部に注意が向かっており、タイキとカナみたいな話でも小説として面白ければ面白く読めるなと思う。

 だから、もし私が急遽映画の監督をしないといけなくなり、あらゆる映画作品を勉強しないといけなくなった場合は、ストーリーのみならず、俳優の表情やカメラワークといった細部にも注意を向けて鑑賞するため、倍速視聴はしないのではないかと思うのである。

 つまり、私の場合、作品をどのような意図で鑑賞しているのか、ということが、倍速にするかそうではないかをおそらく規定している。

 ではZ世代の場合はどうか?

 おそらく、私もZ世代の若者も、早回しをして、脳に負荷をかけないと注意が保てないのだと思う。

 そうしない限り注意が転導してしまうというのはまるでADHDみたいな話だが、実際ネットは注意の引き合い合戦の様相を呈しており、後天的にADHDのような注意の拡散を招いているのかもしれないな、などとも思う。

 と、すればである。8月に刊行予定の「偽者論」(金原出版)は、別に難しい話が書いてあるわけではなく、日本語が読めれば誰でも面白く読める書籍だと思っているのでなるべく多くの人に読んでもらいたいのだが、Z世代にも読んでもらうことを考えた場合、1章の1行目からタイムリープをしたり、難解な解説を行う章で注意が拡散するのを防ぐために、特に脈略もなく芸能人の秘密を次の章で暴露すると予告したりする構成にした方がいいのではないか、とにわかに迷い始めてしまった。

 おそらく映像作品を作る人たちも、この注意を引くための技法を使用しつつ作品のクオリティを保つということに苦心しているのではないかと思う。

 実際どのような作りになったかは、ぜひ刊行された書籍を買って確かめてください。

 さて、今年は「偽者論」が8月に出る前、6月上旬にカムバ予定です。

 いったいなにが出るのか、来週あたりには明らかになると思いますので、そのときはまたnoteでお知らせします。「偽者論」とも大きく内容がリンクしたものになっているので続報を是非お待ちください。

*カムバ:カムバックの略。K-POPアイドルが新曲を発表し、その宣伝期間に入ること。転じて自らをK-POPアイドルに投影し同一視したい尾久が新しい作品を発表し、宣伝期間に入ること



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