『偽者論』刊行記念トークイベント@代官山蔦屋書店<Behind Sketch>
「カムバ」期間などと称して先日発売になった『偽者論』の宣伝活動をしているわけだが、そうして宣伝をしているとどうしても自意識というのが邪魔をしてしまって、かえって十分に宣伝ができない、みたいなことが生じうる。
何が人に刺さるかなど分からないわけだから、なるべく多くの形態のコンテンツを配信すれば良さそうなものだが、自ずとそこは選択をしてしまうようなところがあって、例えば「はい!ということで今日はドッキリを仕掛けていきたいと思いますっ、いぇいいぇい!<パフパフという喇叭の音>さて、この緑のゴリラの着ぐるみを着て病院に行ったらスタッフはすぐに気づくのでしょうか?さっそくやってみましょー!れっちゅご!」
などと述べた動画をYouTubeに掲載したら「ドッキリ!おんもしれー!どれどれこの人の偽者論って本でも読んでみるかね」と思う人が出てきてたちまちに本が売れる可能性があるのに、自分はそのような努力もせずにイケナイ人間なのではないかという気がしてくるが、こうやって文字にして書いてみるとそのような愚行に及ばなくて本当に良かったと思う。イケナイが片仮名なのも怖い。
「おもしろいドッキリだなぁ」と思うことくらい私にもあるが、それは見知った芸能人などがドッキリに引っ掛かっているから面白いのであって、じゃあドッキリ以外のコンテンツならいいのか、というとそうでもなくて、これが熱々焼きそばの大食い、などでも同様である。
つまりどういうことかといえば、お前は誰やとなるわけである。YouTubeを閲覧していると、時々一度も見たことのない青年たちが芸能番組などで見かけるゲームに興じている様が見ることができるが、ただゲームに興じているわけではなく、ファンを意識した振る舞いを微妙にしていて、そんなに人気なのかと思うと登録者数13人みたいな、あれを見たときに感じる気恥ずかしさ、のようなものを視聴者に与えてしまう可能性がある。
あるいはTwitterで厳しく世間を批評している誰かも分からないようなアカウントの目にとまってしまい「浅ましいまでの著者の宣伝活動、いつからこんな風潮になったのだ?」「全く自己顕示欲というか、、、」などと呟かれてしまい、心が折れてしまう可能性もある。
しかし、宣伝すると色々世間と摩擦が生じる可能性があるから、と思ってクールぶっていると、それはそれで良くないというか、実際に何度もタイムラインに流れてきたほうが買おうかなという気になることも実体験として少なくはなく、加減が難しい。このように人目を気にしてあれこれ考えているのはまさしく『偽者論』で書いた偽者らしい振る舞いなわけだが、あまり気にせずに宣伝活動ができる場があればいいわけである。
先週の木曜に行った代官山蔦屋書店での町屋良平さんとのトークイベントは、まさに、そのような葛藤が生じることなく参加することができた。場所もお相手も超一流であり、何か私も超一流になったかのような錯惑・迷耄したポジションから物が言えるからかなと思っていたが、そこでクールぶるのもおかしいのでここぞとばかりに宣伝をした。
ところで今私は「錯惑」「迷耄」という熟語を使ったので、さっすが難しい言葉を使っているなぁ、とか、精神医学の専門用語かなぁと思った人がいるかもしれないが、私自身自分で使っておいて難しい言葉だなぁ、この使い方であっているかなぁと思って調べてみたところ、そもそもこのような単語自体が存在していなかった。私は傲りすぎて、熟語すら創造してしまったのである!!!!!
慢心・傲りというのは恐ろしいものだが、さらに恐ろしいことに、トークイベントには100人以上の登録があったと聞いた。会場にも20-30人くらいのお客さんがいらしており、最初は編集者が10以上の数を全て100というタイプの人である可能性を考えたり、観客のように見えるのは全てプロジェクションマッピングなのではないかと疑心暗鬼にもなったが、紛れもなくそうであるということが分かって大変にありがたいことだと思った。
一体どんな話をしたのか。もし、参加登録をした方がいればぜひアーカイブを見ていただければと思いますし、参加登録をしていない人も、なんとアーカイブを販売しているとのことなので、ぜひ購入してください。
とはいえ、なんの話をしたか分からなければビタ一文も払えねえな、という人もいるので、記憶のみを頼りに大筋を思い起こすと、自分のこういうところは偽者的だよね、という話、町屋さんの読む『偽者論』、小説『天気予報士エミリ』との違い、町屋さんの小説『ほんのこども』との共通点。などについて話したことくらいは覚えているが、こう書いてしまうとそうじゃないんだよな、という感じもする。
というのも、何を話したかはあまりよく覚えていないものの、たぶんあのトークイベントで面白かったのはもっと細部なのではないかと思う。というか、細部が繋がって構成されていたと言っても過言ではないかもしれない。ある程度テーマが決まっており、一人が長く喋る、それに長く応答する、さらにそれに長く応答する、というやり方で進んでいくやり方もあるのだろうが、あの場ではそうならなかった。そのことが重要という気もする。
さて『偽者論』もうすぐ発売から1ヶ月が経とうとしているわけですが、既に読んでいただいた皆さん、ありがとうございます。さらに多くの人に読んでもらえたら嬉しいと思っています。ぜひ忌憚のある賛辞を中心としたご感想などもお待ちしております。
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