見出し画像

『先生』ってなんだ?

先日、同じ英語科のI先生と打ち合わせをしていたときのこと。
授業中にある生徒が質問をしてきたけれど、うまく答えられず、咄嗟に適当なことを言ってしまったと落ち込んでいた。
彼女は、生徒から質問されることが『怖い』と言う。
自分の知らないことを聞かれたらどうしよう?
質問の答えが間違っていたらどうしよう?
と、毎回授業の度に気が気でないという。

そんなI先生の言葉を聞いて、私は心底驚いた。
I先生は誰がどうも見ても“美人”の部類に入る(北川景子似のクールビューティー)素敵な先生で、性格も明るく、とても頑張り屋さんでもある。
それに、生徒から質問が来るなんて、I先生の授業をそれだけ熱心にちゃんと聞いていた証拠なのだから、喜ばしいことではないか。
なのに彼女は、生徒が質問してくれたことよりも、自分がちゃんと答えられるかどうかが気になってしまうという。そしてもし答えがわからないことが生徒にバレたら恥ずかしいと。

なんてもったいないことだろう!!!

私は、生徒からの質問が大好き!
どんな小さな取るに足らないことでもいいから、ジャンジャン質問してきてくれーと思いながらいつも授業をしている。

質問があると、もう待ってましたと舌なめずりしたくなる。私の場合、
生徒が質問してきてくれると、まずその質問に対して感想を述べる。
すんばらしい質問だね!とか、
なかなか鋭いところをついてくるねぇ……とか。
もしその質問が授業中であれば、
じゃあみんなも考えてみて。
と言って、クラス全員と共有する。

そしてもしその質問に対する答えに、少しでも『あいまい』な部分が残る場合は、「ちょっと待って。これもう少し調べさせて。私の宿題にさせて。」と伝えて、いったん“持ち帰り”とさせてもらう。
間違ったことや不確かなことは、生徒に伝えてはならない、絶対に
そんなことをするぐらいなら、「え?わからないの?先生のくせに?」と思われた方が何倍もマシである。

持ち帰った宿題は、時間をかけてじっくりと様々な方向から精査する。
調べてわかったことを文字や図にしながら整理し、どうしてそうなるのかをまとめ、それを表す例文を何パターンか書き出して、次の授業の時に生徒に“提出”する。
するとほとんどの生徒は、自分の投げかけた質問から、こんなに様々な角度から調べてくれたんだと感激してくれて(もちろん納得もしてくれて)、私のまとめたレポートを大事そうに持ち帰ってくれる。

そのような一連のやり取りを通して、生徒たちは「質問する」ということは、わからなかった部分がわかるようになることであり、決して恥ずかしいことではなく、むしろ知識を積み重ねていくうえで必要なことであり、「いいこと」なのだ、と感じられるようになってくる。
私は生徒たちに、「質問する」という行為に対して、いつでも肯定的に捉えてほしいのである。

と同時に、生徒からの質問に対して、正解を導き出せなかった私=先生の姿を、大いに生徒たちに見てほしいのだ。あれ?こうかな?いや、やっぱりこうかな?と考えたり悩んだりしている、一人の学習者としての姿を、見てほしいのだ。

授業中に“あてられた”生徒は、正しい答えを言おうと必死になる。
宿題をやってこなかった生徒は、友達の宿題を写してでも、なんとか解答欄を埋めようとする。
そこに“考える”という動作は存在しない。

私は生徒に正解を言ってほしいのではない。考えてほしいのだ。
自分で考えて導き出した答えには、正解も不正解もない。
考えること、その考えを他者に自分の言葉で伝えられること。
学校という集団社会の中で学習する意味はそこにあり、
それこそがなによりも大事なことなのではないだろうか。

そりゃあ多感な10代。
人前で間違えたりするのは恥ずかしい年ごろですよ。
できれば間違えたくない。失敗したくない。目立ちたくない。
人と違うことで注目されたくない。
だからこそ私のような歳の食った人生経験豊富な先輩が、間違って見せて、迷って見せて、失敗して見せて、「それでもいいんだ!」と、彼らに感じてほしいのだ。(実際、スペリングミスはよくやります😅生徒の方も慣れたもので、「センセー、それerじゃなくてorです」などと、ちゃんと指摘してくれます。ありがとう!)

「正しい答えを言えないかもしれないから質問されたくない。」
先生がそんなんでどうするの?
先生が間違えを恐れてどうするの?
先生が先生であることにこだわってどうするの?

そんなことをI先生と話した。
そんなエラそうには言わなかったけれど。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?