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【掌編小説】アイスと浮気

 サキはもう何回も浮気を繰り返していて、その度に恋人のコウを苦しめ、苛み、壊していった。すでに彼は時々訳もなくナイフを握って、その刃に自分の顔を映しながら、ぶつぶつと何かを呟くようになっていた。僕は、もうやめろ、とサキに言った。本気でまずいことになるぞ、と。
「大丈夫」と彼女はチョコレートフラッペの上にのったバニラアイスクリームをスプーンで口に運びながら応えた。「もうやめたから」
「嘘つけ。三日前にまた浮気しただろ」
「それは三日前でしょ?」アイスクリームから目を離さない。「今はもうやめたの」
「本当に?」
「本当に」と彼女は口の周りにアイスクリームを付けて、ウインクして見せた。店員が僕のコーヒーを持ってきた。僕はコーヒーに口をつけた。それからため息をついた。
「次にハル君がする質問、大体想像がつく」と彼女は上目遣いで僕を見ながら言った。
「当ててごらん」
「なんで浮気なんかするんだよ、でしょ?」
「正解」僕はまたため息をついた。
 彼女はまたアイスクリームを口に運んだ。美味しい、と目を細める。僕は、やれやれ、と心の中で呟く。
「ねえ、自分に世界を救う力があったら、どうする?」と彼女はまたスプーンでアイスクリームをすくいながら言う。
「世界を救う力?」
「そう。戦争とか、地震とか、交通事故とか、治らない病気とか」
「治らない病気って、例えばどんな病気?」
「少しずつ足の指先から腐っていく病気とか」
「怖いな」
「怖いでしょ?」
「そりゃ、救うよ」と僕は応えた。「自分にそんな力があったらね」
「女には世界を救う力があるの」
「どういう意味?」
「そういう意味よ」
 彼女はストローでフラッぺをかき混ぜた。耳たぶに下がった長いピアスが魔法使いの鈴みたいに揺れた。
「困ってる、悲しい、癒されたい、そういう男の人ってたくさんいるでしょ?」
「ああ、たくさんいるよ」と僕は言った。「まさか、それで浮気してるの?」
「そうだよ。他に何があるの?」
 僕はコーヒーを飲んだ。コーヒーは少し苦すぎた。彼女は僕の顔を盗み見て、アイスクリーム食べる?と言った。ああ、と僕は言った。彼女はアイスクリームののったスプーンを僕に差し出して、あーん、と言った。僕は口を開けてそれを食べた。
「ほら」と彼女は勝ち誇ったように微笑んで言った。「少し癒されたでしょ?」
「全然」
「もう一口食べる?」
「食べる」
 僕はまた口を開けて、彼女がスプーンでアイスクリームを運んでくれるのを待った。
「美味しい?」と彼女は微笑みながら言った。
「美味しい」
 僕の負けだ。でも、まずい状況には変わらなかった。彼女はきっとまた浮気するだろう。その時は誰に向かってかはわからないが、彼は間違いなくナイフを使うことになるだろう。
「彼の気持ちはどうなる?彼を苦しめていいわけじゃない」
「コウ君のことは好きよ。でも私は彼の物じゃない。自分のしたいことをするし、やりたいようにやる。食べたい時にアイスを食べる」
「アイスと浮気は違うだろ」
「同じよ」
 僕は取り合わなかった。
「別れた方がいい」
「コウ君がもう私といたくないっていうんだったら、別れるよ」
「君から言うんだよ」
「なんで私から?私はべつに別れたくないもの」
 行き止まりだ。彼女が誰かを救えば、誰かが死ぬ。ああ、美味しかった、と彼女は空になったカップを前にして言った。
「とにかくもう浮気はなし」と僕は言った。
「わかったって」と彼女は笑って応えた。
 僕と彼女は喫茶店を出た。彼女は僕の腕を取って、ぴったり体をくっつけながら上目遣いで言った。「ねえ、次はどこ行く?」
「だから、そういうのをやめろって言ってるんだよ」と僕はあきれて言った。
「そういうのって?」彼女の髪からふわっといい匂いがした。「アイス、美味しかったね」と彼女は満面の笑みを浮かべて言った。
「ああ」
「私、アイスを奢ってくれる男の人、好き」と彼女は僕の腕にぎゅっとしがみついて言った。それから小さな声で、「私、知ってるんだよ。ハル君がミキと上手くいってないこと」
 僕はエスカレータの手前で立ち止まって、心の底からため息をついた。そして、思う。殺されるのは、僕かもしれない。

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