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【掌編小説】最後の晩餐

 黒い空を見る。雷が鳴って、夕立が降り始めるのを待つ。世界の全てを押し流してしまうような最後の審判的な雨を。やがて雨はあがり、虹がかかる。世界の東端から、夕陽の頭を越えて、西の端へと。その虹の隙間から出てきた一羽の平和の白い鳥に、欲望や嫉妬なんてみんな食われてしまえばいい。茜色の空が消えると、その向こうに満月が浮かぶ。全ての原因となった満月が。
 彼女にとって、彼は満月の君で、僕は新月の君だった。彼女は満月の夜に彼に会い、新月の夜に僕に会う。それが僕らのルールだった。そして満月の夜に、彼女は彼の子供をお腹に宿した。それは彼女の望んだことじゃなかった。簡単に言ってしまえば、彼に騙されたのだ。彼女はもっと自分自身の人生という舞台で楽しみたかったし、僕を含む複数の男達と小さな罪に満ちた恋愛ごっこに興じていたかった。彼女は彼女なりの人生の理想があって、それは今、子供を作ることでは決してなかった。でも、仕方ない。満月の前を横切る小さな流れ星のように新しい命はやってきたのだ。誰がそれを否定できるだろう。それはすでに彼女の一部として育まれているのだ。
「最後に一回、する?」と彼女は僕を誘ってきた。僕らは僕の部屋でウィスキーを飲んでいた。十八年もののアイラウィスキーだ。これが最後のお酒、と彼女は言った。ついでに最後のセックスする?と。僕は少し迷ったが、断った。そんな気分にはなれない。男の本能かもしれない。
「妊娠済みの女には興味なしですか」と彼女はすねて言う。
「気になるだろ。何か問題が起きたらって」
「まだ大丈夫だよ。気づかないでばんばんやってる人だっているくらいだし」
「もう気づいてるじゃないか」
「中に出しても大丈夫だよ」
「いや、いいよ」
「あなたと彼の交じった子が生まれてきたりしてね」
 彼女は楽しそうに笑う。僕は笑う気になれない。
「そしたら私、もっと大切に育てるよ」
 彼女はグラスを傾ける。彼女は言う。お酒にしたって、まだ気づかない人がいるくらいの時期だから大丈夫。
「ねえ、もし、この子があなたの子だったらどうする?」
「冗談はよせよ」
「だから、もし、よ」
 僕は考える。自分の子。この宇宙の中で塵に等しい自分の子供。
「まずは指輪を買いに行くね。僕はまだ、君にプロポーズしてない」
 みるみる内に、彼女の瞳に涙が溜まる。
「あなたがそんなに優しい人だとは知らなかった」
「男を見る目をもっと磨いた方がいい」
「本当ね」と彼女は噛みしめるように言う。
 僕は自分のグラスに氷を足して、ウィスキーを注ぐ。結構酔っているはずなのに、全然酔った気がしない。彼女のグラスには氷だけ足す。彼女は一口でグラス半分くらいを飲み干した。
「もっと大切に飲むウィスキーだ」
「酔っちゃえばなんでも一緒でしょ?」
「それでもうやめとけよ」
「嫌」
「何かあったらどうする?」
「あなたに責任とってもらう」
「じゃあ、今すぐよせ」
「何もないわよ」
「わからないだろ?」
「絶対、嫌」と彼女は何度も首を振りながら言った。「絶対、嫌。これで最後って決めてるんだもの。好きなだけ飲ませてよ。なんでそんなこと言うの?私のこと、好きでしょ?好きだったんでしょ?子供ができたからって、冷たくしないでよ。なんで抱いてくれないの?もう最後なのよ?あなたとこうして飲んで、いい気分に酔って、抱き合うのは最後なのよ?どうして抱いてくれないの?」
 僕は注いだばかりの自分のグラスを一気に飲み干す。それから彼女の隣に行って、彼女の体を抱きしめる。彼女は体を震わせながら、僕の首筋に顔をうずめて泣く。彼女の体はいつもよりも熱い。僕はしっかりと彼女の体を抱きしめる。僕にできるのはそれが精一杯だ。
 ひとしきり泣いた後、彼女は、お腹が減った、と言った。
「どのくらい?」
「世界中の食料の半分くらい食べれる」
 僕は冷蔵庫からベーコンとほうれん草を出して、それを炒めた。スクランブルエッグも作った。つまみのチーズとナッツを足した。ステーキを焼き、最後にスパゲッティを茹でた。彼女はまさに二人分とも言うべき食欲でそれらに食らいついた。僕は呆れ顔でその様子を見ていた。栄養過多で、今から母乳が出てしまうのではないかと心配になるほどだった。母乳が出てきちゃったから責任とってよ、と言われても、責任なんかとれない。
「こうしてあなたの手料理を食べるのもこれで最後なのかな」と彼女が言う。
「多分ね」
「他に作ってあげる人、いるんでしょ?」
「いるよ」
「誰?」
「妹」
「他には?」
「これから作る予定」
「可哀想な人」
「誰のせいだよ」
「誰のせいでもない。そうでしょ?」
 僕は彼女のグラスにジュースで薄めたワインを注いでやった。暑くなってきたので、窓を開けた。心地良い風が入ってくる。ベランダに出て、煙草を吸った。彼女はテーブルに頬杖をついて、何かを考え込んでいた。
「名前は考えたの?」と訊く。
「まさか。まだ男か女かもわからないのに」と彼女は応える。それから少し考えた後で、「男の子だったら、あなたの名前をつけようかな」
 スパゲッティを平らげると、彼女はグラスを持ってベランダに出てきた。僕は三本目の煙草を吸っていた。
「一人だったのが二人になるなんて不思議ね」と彼女はベランダの柵に腕を置いて、街の灯りを見下ろしながら言った。その感覚は男には永遠にわからない。彼女は僕の口から煙草を抜き取ると、それを口に咥えた。
「やめろよ」
「今日で最後よ」
 彼女は煙を吸い込み、ふうと風の中に吐いた。前髪がさらさらと揺れた。静かな呼吸で彼女の胸が小さく上下するのが見えた。
「色んなことが今日で最後」
 彼女は月のない空を見上げながら、お腹に手を当てて呟くように言った。

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