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【掌編小説】最高記録

 彼女は美人で、おまけに胸が大きい。みんなが彼女の胸に釘付けになる。彼女もよくそれをわかっていて、できるだけ胸の目立たない服を着るけれど、それでも隠し切れない。彼女と一緒に街を歩くと、前から来た男が彼女の胸を見て、顔を見て、また胸を見るのがわかる。僕は、こうやっていつも人々の視線を浴びるのはどんな気分なんだろう、と思う。彼女が胸を張って、にこっと微笑めば、恋に落ちない男はいない。一瞬、時が止まって、上空から光が射し、自分が選ばれし物語の主人公になった気さえする。僕はそんな彼女が好きでもあり、嫌いでもある。いや、正直、憎んでさえいると言ってもいい。
 僕がトイレに行っている間に、彼女は二人の男に声をかけられている。駅の地下モール。向かいから三人目が近づいてきたところで、トイレから戻ってきた僕は横からそっと彼女の肩を抱いて、今日は何人?と耳元で訊く。今、近づいてきた人で三人目、と彼女は上目遣いでいたずらっ子のように言う。「もうちょっと待ってくれたら、最高記録更新だったのに」
「僕が三人目だ」と僕はウィンクする。
「すみません、私、彼氏を待ってるんです」と彼女はよそ向きの表情になって言う。
「彼氏?どこに行ってるの?」
「トイレ」
「こんなところで彼女を待たせる彼氏なんてひどいな」
「緊急事態だって」と彼女は言って、笑みともとれるようなとれないような表情を浮かべる。「よく緊急事態が起こるんですけど」
「腹が弱い男は裏切り者が多いって言うよ」
「どうして?」
「何より腹を優先しなければならないからさ」そう言って僕は彼女の笑いを誘う。でも、彼女は笑わずに醜い深海魚を見つめるような目で僕を見つめる。
「ごめんなさい、彼氏を待ってるんで」
「連絡先だけでも教えてよ」
「嫌です。彼氏を悪く言う人とは付き合いたくないんで」
 僕は肩をすくめると、彼女の前から姿を消す。それから反対側に回って彼女に声をかける。
「ごめん、遅くなった」
「大丈夫だよ」と彼女は笑って言う。
「今日は何人?」
「三人」
「最高記録更新だ」
「うん」と彼女は笑う。「でも、三人目の人が最悪だった」そう言って、彼女は僕の腕をとる。
 僕は、いつか彼女が僕を捨ててもっと彼女に似合う男のところに行くだろうと思っている自分が嫌いだったし、彼女を愛しすぎて傷つくのを恐れる自分も嫌いだった。そんな人間がよくするように僕も時々彼女に冷たくあたった。自分を幼稚とわかっていてもその幼稚さから抜け出せない自分を僕は心底軽蔑していた。
 彼女は久しぶりのデートで少しはしゃいでいるようだった。僕らは街をウィンドウショッピングしながらぶらぶらと歩き、手を繋いだり離したり、やっぱり道行く男達は彼女をじろじろと眺めた、僕にもわかるほどに。それから彼女のお気に入りのカフェに入って、のんびりとランチをした。彼女は相変わらず黒くてきれいな肌ね、と僕の腕をさすりながら言った。彼女は色黒の男が好きだ。きっと数ヶ月後は僕よりも色黒の男を見つけて、手を繋ぎながら一緒にウィンドウショッピングをしたり、ランチをしたりしているだろう。
「ねえ、私といるの、楽しくない?」少し沈黙した後、彼女が言った。
「まさか。楽しいよ」と僕は言った。
「そう。ならいいけど」
 ウェイターが来て、彼女のデザートのチョコレートクレープと僕のコーヒーをテーブルに置いた。彼女はクレープをきれいにナイフで切って、一口僕の口に運んでくれた。僕はコーヒーカップを二人の間に置いた。彼女はこの前の誕生日に僕がプレゼントしたネックレスを付けていた。数万円の安物のネックレスだ。彼女だったら百万円のネックレスを付けていたっておかしくない。いや、一千万円のネックレスだって、彼女の美しさにはふさわしくない。
「ねえ、どうしたの?」と彼女が僕の目を覗き込んで言う。
「なんでもないよ」と僕は言う。
「三週間ぶりに会うのに、全然楽しそうじゃない」と彼女は暗い表情で言った。「私はすごく楽しみにしてきたのに」
「ちょっと仕事が忙しくて、疲れが溜まってるのかもしれない」と僕は言った。
「そっか。ごめんね、せっかくの休日なのに」と彼女はますます暗い顔つきで俯いて言った。
「そんなつもりで言ったんじゃないんだ。僕だって、ミユキに会うのを楽しみしてたんだよ。会えなくて死にそうだったよ、本当」
「死にそうだったの?」
「二、三回は死んだ気がする」
 彼女は少し嬉しそうに笑って、手を伸ばして僕の指を握った。
「ちょっとトイレ」と言って、僕は席を立った。
 僕はトイレの鏡で自分の顔を眺めた。じっと何分間か自分の顔を眺め続けた。そのうち、鏡に映っている顔が別人のように思えてきた。僕は洗面台で顔を洗って、備え付けの手拭き用ペーパーで拭いた。それからもう一度自分の顔を眺めた。少しだけ、自分の顔に戻った気がした。
 トイレのドアを開けて外に出ると、僕らのテーブルの脇に一人の男が立って、彼女と話しているのが見えた。彼女の表情は見えなかった。僕はテーブルに戻って、お待たせ、と言った。
「こちらは?」と僕は男を見て言った。
 彼女は少し困った顔で、「ちょっと話しかけられただけ」
「失礼、一人だと思ったので」と男は言った。僕より少し背が高く、色黒で精悍な顔立ちの男だった。「こんなに素敵な女性をずっと一人にしておいたら、僕みたいな奴がたくさん寄ってきますよ」
「ご忠告、どうも」と僕は言った。男は彼女を見て言った。「僕ならあなたを一分だって一人にはしないけど」
「僕は時々二十分くらい彼女を一人にしちゃうけど」と僕は彼の目を見て言った。「心配はしてないですよ。彼女が僕以外の人を好きになることはないので。僕より彼女を愛している男はいないから」
「すごい自信だな」と男は少したじろいで言った。「本当?」と彼女に訊く。
「うん、本当」と彼女は答えた。
 諦めて男が去ると、僕は椅子に座って、「また最高記録更新だね」と言った。
 彼女は顔を赤らめて、僕の耳に口を寄せると、「ねえ、今すぐあなたに抱かれたいんだけど」
 僕は彼女の皿を見て、「まだクレープが残ってる」
 彼女はそれをフォークに刺すと、無理矢理僕の口に押し込んで、「後で、私を待たせたことを後悔させてあげる」

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