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メコン川ではなく日本川?(カンボジアの日本人町はどこにあったか2 )

プノンペンにあった日本人町之跡の碑

第1回で掲載した写真の全体像です。撮影場所はサップ川沿い、後世フランス人が鉄道駅まで運河を掘った跡を埋め立てた道路沿いの公園に見えます。ここが日本人町だった根拠については不明です。運河を掘った時期についてはまだ調べていませんが、もしかするとフランス人や鉄道とは関係なく、17世紀に日本人が運河を掘っていた可能性もあるのかもしれません。

日本は江戸時代の鎖国に入ったため、資料がほとんど残っていませんが、オランダなどヨーロッパ諸国はカンボジアを含む東南アジア一帯でも活発な貿易活動を続けていました。日本も長崎の出島でオランダとの交易を続けていましたが、そういった商船がここカンボジアにも寄港した記録が残っています。資料の詳細については改めて公開したいと思いますが、メコン川を遡ったオランダ商船は、プノンペンにおいて水先案内人の出迎えを受けました。それはプノンペン日本人町の長だったそうです。そういった記録は搭乗していたオランダ人の日記にも残されています。

こういった事例からは、メコン川の移動に長け活発に域内貿易をしていたのは、当時の日本人であったことが推察されます。ベトナムのフエにおいては、日本人町に作られた日本橋がいまだに現存しており、その場所が伝承されています。

更にそういった想像を裏付ける資料として、このようなヨーロッパで作成された地図もありました。現地での呼称とは異なり、一部のヨーロッパ人にとっては、特にその下流においてメコン川ではなく日本川と呼ばれていた可能性も推察されます。

今年は日本カンボジア友好70周年でもあり、これを機会に両国のつながりを記録に残そうと、色々と調べています。こういった投稿をご覧になって、何かご意見、ご感想、あるいは情報がございましたら、ぜひご連絡ください。

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