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【日本とカンボジア】内戦前の有名なアンコール遺跡本の著者3人とカンボジアとの数奇な縁

1962年に出版された「アンコールの芸術 カンボディア王国遺跡めぐり」という遺跡案内の本があります。今川幸雄、川瀬生郎、山田基久の3人による共同の執筆です。どうも自費出版だったようです。

「アンコールの芸術 カンボディア王国遺跡めぐり」1962年


この本をベースにして、1969年に霞ヶ関出版から「アンコールの遺跡 : カンボジアの文化と芸術」が出版されました。私が1994年に初めてカンボジアを訪れた際には、この「アンコールの遺跡 : カンボジアの文化と芸術」の海賊版がたくさん出回っていて、遺跡にいる土産物売りの子供たちは、日本人と見ると必ずこの本を勧めてきました。

「アンコールの遺跡 : カンボジアの文化と芸術」1969年

今川大使によると、昭和36年10月頃、当時の芳賀四郎大使から、「3人で協力して、アンコール遺跡を見学する日本人観光客の為に、適当な案内書を作ってはどうか。」との話があり、早速3人で役割分担して執筆を開始したとのことです。太平洋戦争後、はじめての日本語でのガイドブックと言うことで大変好評だったそうです。

3人の共著者のうち今川幸雄さんはカンボジア語を専門とする当時新進気鋭の若手外交官で、1962年当時、外交官としてプノンペン赴任中でした。1957年4月から3年間は研修員として、その後の5年間は三等書記官として1965年まで長期間のカンボジア勤務でした。
後年、日本政府が積極的にコミットしたカンボジア内戦の和平交渉に携わり、内戦終結後の1992年には、大使館が再開した際の初代大使としてカンボジアに戻ってきました。外交官生活の始まりと終わりがカンボジアだったことになります。

1994年から1995年。筆者が初めて撮影した当時の今川大使の写真。

今川大使が現役でご活躍の時代に、学生だった筆者が大使館の領事窓口に行った際にも、大使から気さくにお声掛けをいただき、学生の身で面識を得ることができました。今思い返すと、なぜ大使が領事窓口の傍にいたのか不明ですが、庶民的で大変アクティブな方だったと思います。また晩年にお一人で日本カンボジア協会を切り盛りされているお姿を拝見し、私が日本に滞在した1年限定ですが、協会の事務局長としてご協力させていただきました。向井理さんの親善大使委嘱などを一緒に手掛けられた事は、今でも良い思い出です。

今川大使は、「あの頃は車はほとんど走っていなくて、道路も比較的快適で、週末になると、日本人やカンボジア人の友人とともにシエムリアプへ車を飛ばし、アンコールの遺跡をあちこちと見て回った。研修を終えて、三等書記官になった後もその活動は続けて、少なくとも100回は遺跡を訪問したと思う。」と回想していました。プノンペンにおいても、「国立博物館や国立図書館、仏教図書館などに通い、高僧のフーッ・ターット師のようなカンボジアの学者や、ベルナール・グロリエを始めとするフランスの学者などからも教えを請い」、親しい2人の友人と一緒に、上記の出版を成し遂げたそうです。

その親しい友人の1人、川瀬生郎さんは1955年東京大学文学部卒業し、国際学友会日本語学校講師に。そして1959年から1962年まで、コロンボプラン派遣専門家として、カンボジア国立ユーカントー高等学校で日本語講師でした。ちょうどこの出版の頃にインドネシア国立パジャジャラン大学客員講師としてカンボジアを離れています。その後1985年には東京大学教授になります。『日本語初歩』『日本語中級I』『日本語中級Ⅱ』などの著名な日本語教育本を国際交流基金から出版するなど、日本語教育の大家となりました。彼の現場経験が、その当時のカンボジアにおいて培われたものである事はあまり知られていないかもしれません。

もう1人の山田基久さんも同様にコロンボプランの派遣専門家としてプノンペンで日本語を教えていました。川瀬さん同様にカンボジアにおいて、日本語話者の第1世代を育てるための日本語教育を行っていたのです。川瀬さんと異なり、1962年以降もしばらくカンボジアにいたようです。

その後1976年に隣国タイの日本大使館広報センターに勤務していた山田さんは、思いもかけない連絡を受けることになります。カンボジアで日本語を教えていた教え子のシブさんが、クメールルージュによる大虐殺を逃れて、カンボジアからタイへと逃げ延びてきたのです。タイに辿り着いたシブさんから連絡を受けた山田さんは、喜んで身元保証をしてバンコクの自宅で受け入ました。

その後アメリカに渡ったシブさんは、それからたった13年後の1989年には、ブッシュ大統領のもとで大統領補佐官代理(渉外担当)へと出世を遂げます。当時のホワイトハウスにおいてアジア系アメリカ人が手にした最高のポストでした。その経緯は読売新聞で紹介されています。

シアヌーク殿下の日本人移民計画そしてコロンボプラン。太平洋戦争後の日本とカンボジアの縁が、こんな所にも見え隠れしています。

読売新聞1989年6月27日記事


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