見出し画像

【日本とカンボジア】カンボジアの日本人町はどこにあったのか 4

収集したプノンペンの地図資料を使って田中久一中将が「日本人町之跡」の碑を建立した運河跡について考証してみたいと思います。

第21師団長、田中久一中将
1931年のプノンペン地図にはまだ水運と連携しているはずの鉄道駅は無いが、運河は既に存在しています。この運河の埋め立てた跡地に田中中将が碑を建立しています。これは17世紀の日本によく見られた堀割で、湿地を盛り土して洪水を防ぎ、水運により物流を強化し、日本人が異国で生きていくため住みやすい環境へと整えたのではないかとの仮説を立ててみました。
1928年の地図にも運河は存在します。それどころか、後に鉄道駅ができる場所から北に向けてさらに運河が延伸しているのがわかります。これはまさに戦国時代の日本で発展した堀割なのでしょうか。運河の終点は現在のフランス大使館のあたりです。そこにはクメールルージュに破壊された、当時建立されたばかりの戦没者記念塔が記されています。
1928年当時の運河の終点は現在のフランス大使館のあたりです。そこにはクメールルージュに破壊された戦没者記念塔が記されていましたが、これは1925年建立時の記念写真です。昨年(2022年)12月に、2023年がフランスとの国交樹立70周年であることから、それを記念して再建されることが発表されました。70周年には間に合わないませんが、80周年には日本人町の記念碑を建立できるよう、調査を続けていきたいと思います。
1921年のプノンペンの地図。ワットプノムを中心に、外敵から身を守るお堀にも見えます。
1903年のプノンペンの古地図では明らかに堀割で、都市を外敵から守るために設計されているように見えます。古来からあった交易都市に遷都した際に、当時は町外れだった現在の地に王宮ができたのではないかと想像します。王宮の背後を守る新たな堀はその後埋め立てられ、現在のノロドム大通りになったのではないでしょうか。
1885年のプノンペン地図。まだ堀割は無いようにも見えるが、その原型かもしれない川は確認できます。カック沼らしき表記があるが、沼ではなく川についています。雨季だけ沼になる湿地帯だったのか、人工的な溜池か。



1867年のプノンペン地図。残念ながら該当する位置に運河や川は見当たりません。しかしながら、王宮の付近以外には、存在する筈のその他の小川や沼も記載されていません。
1900年頃の運河入口の橋の様子
1890年のワットプノムの様子。現在のように木が生い茂っているのではなく、辺りを一望できる丘でした。17世紀には、遡上してくる船を見張る監視塔の役割もあったのかもしれません。このすぐ南に運河は存在しました。

当ブログは「にほんブログ村」のランキングに参加中です。1日1回のクリックにご協力ください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?