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【日本とカンボジア】白菜の別名はボコー菜なのは何故か、日本との知られざるつながり

スペイ(菜)ソー(白)のことを、スペイ(菜)ボコーとも呼ぶのは何故か。そこには日本人が関係していました。

熱帯高原農業の専門家だった磯村勝さんは、1957年にコロンボ計画でボコー(ル)のシアヌーク殿下の農場に招かれました。1961年にコロンボ計画は打ち切られましたが、磯村さんは帰国せずに、東京農業大学で勉強中の息子勉さんを呼びよせ、シアヌーク殿下が提供したボコール高原の約10ヘクタールの森林を開墾し、トマトやメロンなどを含む様々な野菜や果物の栽培を始めます。

開拓後間もない磯村農場を訪れ握手を交わすシアヌーク殿下。1962年頃。

その数年前の1955年に国賓として日本を訪問し、独立後初の友好条約を日本と結んだシアヌーク殿下は、日本人限定で5年間で5万人の移民受け入れを表明しました。(参考:当時のカンボジアの総人口はたったの約400万人でした。)

国賓として訪日中のシアヌーク殿下と鳩山首相。この日本訪問において、日本人移民計画を提案をした。1955年。

このプロジェクトでは、女性移民は2割以下に限定され、日本人の若者にカンボジア人と結婚し永住してもらうことを期待していたようです。また日本の資本や技術を用いて、ボコール同様に高原であるキリロムに高原都市建設を計画していました。この計画が順調に進んでいたら、カンボジアには多数の日系人が活躍していたのかもしれません。

高原都市、農業といったキーワードからも、1955年の日本との国交樹立前後にシアヌーク殿下が思い描いた「日本人移民計画」の断片が、磯村さんのような日本人との特別なつながりとして残ったのかもしれません。

読売新聞1955年12月10日7面
読売新聞1955年12月11日1面社説

磯村さんは自身の農場だけでなく、カンボジア人に栽培方法を伝授しました。ベトナムのダラットなどから輸入されていた、あるいはヨーロッパから空輸されていた野菜や果物を一掃し、カンボジアの外貨節約の一助となっていたようです。シアヌーク殿下の評価も高く、頻繁に農場も訪れていました。また磯村さん家族全員に対して、何度か勲章も授与をしていました。

左から順に勉さん、百合野さん、勝さん、シアヌーク殿下、きずさん(勝さんの夫人)、美智子さん(勉さん夫人)

その当時にはプノンペンの高級レストランで、「ボコール野菜」や「ボコールサラダ」といった呼称が一般的になっていたようです。高原野菜として、その代表格になったのが白菜です。スペイソー(白い菜)の別名が、スペイボコー(ボコーの菜)なのは、そのような経緯に由来すると思われます。

1970年にクーデターでシアヌーク殿下が国を追われると、農場の平和にも暗雲が立ち込めます。内戦が激しさを増す中で、勝さんの助手で息子のように可愛がっていた百合野さんが、日本人ジャーナリストとともに行方不明になります。その心労もあったのか、勝さんも10月に帰らぬ人となりました。その後、当時のシリク・マタク副首相からの土地提供の申し出を断り、磯村家は日本に引き上げることになります。

その後、息子の勉さんは日本の食品会社に勤務していましたが、国連暫定統治による新生カンボジア王国が成立した時期に、偶然にも隣のタイにある食品加工工場の責任者として赴任しており、隣国カンボジアに四半世紀ぶりの里帰りを果たしました。夕日を背景に密林から現れた象の群れが農園を横切る光景や、虎等の野生動物が頻繁に現れたことなど、当時の雄大な自然や、長閑で素晴らしいカンボジアを語られています。

日本とカンボジアの知られざる交流や繋がりはまだまだ沢山あるようです。

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