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【カンボジアの歴史】イエイ・マウ①「タニの呪い」

カンボジア王国の南部のカンポット州タニに、地元の人に日本平原(ヴィール・チャポン)と呼ばれる場所があります。先月訪問した際に、ここは太平洋戦争当時に日本軍が建設した飛行場跡であることがわかりました。現地で聞き取りを行う中でタニの古老から、「日本軍の駐留していた時代に、この辺りに住んでいた多くの人が、イエイ・マウに呪い殺された」との伝承を聞きました。

現在の日本平原
日本平原に残る建物の基礎の跡

地形を弄ったことに怒ったイエイ・マウ(黒いお婆さん)と呼ばれる強力なニアック・ター(土地の精霊)が、日本軍に徴用され空港建設作業に従事した多くのカンボジア人を呪い殺したのだそうです。「日本に雇われた人の未亡人」と呼ばれる年寄りが、古老が若い頃には、「どの村にも其処彼処にいた」そうです。この伝承がどのようなものなのか調べてみることにしました。

まずは、日本軍が作った飛行場についての情報を探したところ、私の友人の阿佐部伸一さんが2005年に書かれた記事を見つけました。以下引用をします。私が見つけたタニの飛行場ではなく、同じくカンボジアのコンポンチュナン州の飛行場の話ですが、同時期に行われた工事として、証言内容には類似性があると思われます。

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ルンウェーの飛行場建設で日本軍に駆り出されたという老人に会いに行った。平均寿命56.7歳のこの国で、当時を知る人は希有。ポルポトの大虐殺時代も生き抜いたヌットゥ・スックさん(80)は、庭で水浴びの最中だった。
「仏軍に通行許可を取っただけど聞いていたが、車と馬に乗った何百人もの日本軍が村に来て、飛行場建設を始めたんだ」。スックさんは今も耳から離れない日本語があるという。「よくない!」。働きが悪いと、日本兵はそう怒鳴ったそうだ。村人を二班に分け、15日交代の重労働。牛車と一緒に駆り出され、一日5リエル。牛車がない農民は、1.2リエル。深い森を切り拓き、約8キロ離れた岩場から運んだ石を敷き詰めた。待遇には不満だったが、銃を構える日本兵に、誰も逆らえなかったという。何百人という他県からの農民、それに、重機代わりにゾウも連れて来られていた。劣悪な労働環境のなか、コレラが流行し、多くの死者が出たという。だが、賠償訴訟どころか、慰霊碑さえない。生き証人のスックさんが亡くなれば、「なかった事実」となろう。
(「カンボジア 日本軍の飛行場」 阿佐部伸一
2005年4月発表から引用)
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筆者の実体験として、2003年にコンポンチュナン州アンドールセイ村に滞在した際に、すぐ近くにあったこのルンウェーの日本軍の飛行場について聞いたことがあります。アンドールセイは素焼きで有名な村で、焼き物に使う土を周辺から入手していましたが、その採取先の1つが旧飛行場周辺でした。土の採取に同行した際に、徴用の話を聞きました。日本軍が去ってから既に半世紀以上が過ぎていましたが、当時は近隣の人々誰もが「日本の飛行場」として認識していました。また、建設の際には徴用された村人から死者が出たことや、給与は支払われたこと、戦闘への動員は一切なかったことなどを聞きました。カンボジア各地で、日本軍による飛行場建設が突貫工事で行われていたことが窺えます。

多くの飛行場で行われた補修と異なり「新設」だったタニでは、より大規模な土木工事が行われたことが推察されます。しかも他にはない第二飛行場まで同時に建設されています。農地が広がる現在と異なり、当時はタニ周辺の多くは密林だったと言われています。前述の証言同様に、タニでも劣悪な労働環境や伝染病により多くの死者が出たと仮定すると、そういった事実が、タニでは「(精霊に)呪い殺された」として伝承された可能性があるのかもしれません。

当時の仏印での建設作業風景

ところで、日本軍の土木工事に怒ったとされるイエイ・マウとは、果たしてどのような精霊だったのでしょうか。呪いとは具体的にどのようなものだったのでしょうか。タニでの聞き取りでは詳しい事は分かりませんでした。引き続き調査を続けたいと思います。

タニ飛行場跡の衛星写真

②に続く?。一応連載になる予定。

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