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ダップ・チュンの半生とカンボジア独立運動

シアヌーク時代と一括りにされてしまうことが多いカンボジア独立からロンノル政権までの期間ですが、実は結果としてはそうなったものの、そこには、多くの潜在的なリーダーがいて、国の進むべき方向性としては色々な可能性がありました。

先日、シェムリアップからプノンペンへの移動中に、その伝説とクーデター未遂での処刑という非業の死について紹介したダップ・チュンですが、改めて書いてみたいと思います。今年の1月にはCIAによる画策を国家警察が内定中との報道があり、フン・マネット首相による、過去の歴史の中でのCIAのカンボジアへの画策についての指摘もありました。その過去の画策の1つが、チュンによるクーデター未遂です。シェムリアップからプノンペンへの移動中にまとまりのない駄文を書いてみたいと思います。

前回の移動で執筆した記事はこちら

先にも述べましたが、米大統領がCIAに当時の状況について関与の確認をとるなどした記録などから、実際にクーデターの目論見があり、その背景にアメリカの関与があったことが確認できています。チュンのもとには、日系アメリカ人の外交官による画策があったとも言われています。チュンの自宅からは、プノンペンのアメリカ大使館の外交官だったビクター松井から提供された通信機や、親アメリカの南ベトナム人2人が発見されています。松井は事件後すぐにカンボジアを離れ、1966年には同様の容疑で、ペルソナノングラータとしてパキスタンから国外追放になっています。

ダップ・チュンは1954年のジュネーブ会議にシアヌーク国王の随員として同行していることが確認できます。今でこそ独立の父と呼ばれるシアヌーク国王ですが、この頃にはカンボジアは、ソン・ゴク・タンやソン・ゴク・ミンその他、新たな独立国カンボジアを思い描く多くの人物がいて、群雄割拠の感もあります。シアヌーク国王としては、完全な独立を早急に得ないと国民の信任が得られず、自分の立場が危うい状況でした。ダップ・チュンの投降を受け入れ好待遇をしたのも、そういった中での切り崩しの意図があったと思われます。

ダップ・チュン

複数の別名を持つチュンは、1912 年にシェムリアップで生まれ、ベトナム国境に近いプレイヴェン州で育ちました。若くしてフランスの民兵隊に加わり、軍曹に昇進しました。 フランス・タイ戦争では、彼はタイ軍に捕らえられたともカンボジア国家警備隊から脱走したとも言われています。その後タイ政府の支援を受けて、シェムリアップ周辺地域で反フランスのゲリラ活動を組織しました。チュンは極度の残虐行為で知られ、他のイサラクの指導者たちとは距離があったとも言われていますが、それも後から脚色された話なのかもしれません。

1954年のカンボジアの独立後、チュンはシアヌーク主導の新政府に加わり、イサラクの代表としてジュネーブ会議に随行しました。翌1955 年の選挙中、チュンの民兵は、シアヌークの反対派の集会を解散させるために日常的に使用され、有権者を脅迫し、シアヌークの番犬として、残忍さで有名になったとも言われています。選挙においては、チュン自身が小政党を率いて立候補したとも言われており、その当時の情勢についてはもう少し調べてみたいと思います。

1954年ジュネーブ会議

その後、シアヌークの信任厚く国内保安大臣に任命され、シェムリアップ州の知事になった彼の反共主義活動は米国政府によって注目されました。 チュンは、シハヌークとの関係性が悪化した後、1957年に内閣から解任されたようですが、シェムリアップに籠った彼は、アメリカの支援を受けプノンペンから独立した影響力を持ち始めていたのかもしれません。1959年、チュンはCIAが資金提供したとされるクーデター計画(所謂バンコク計画)が発覚し、シアヌークは彼の逮捕を命じました。その後すぐに、裁判にかけられることなく、シアヌークの指示で処刑されたとも言われています。(後年シアヌークは、自身の関与が暴露することを恐れたロンノル将軍が口封じに殺したと言っていますが、真相はわかっていません。)

そのような時流の中には日本人もいました。明号作戦の後で独立を宣言したシアヌーク国王の衛兵隊長を務め、その後カンボジアの独立闘争に参加した只熊元陸軍大尉によると、独立闘争においてはシアヌークではなく別の王子の優秀なる活動について評価しており、王家の血筋からしても、シアヌーク国王は決して唯一の存在では無く、王族と政治家のバランスをとりながら、影響力を維持するのに苦心していたことが窺えます。また只熊氏は独立後のシアヌーク殿下の活動についても「生来の独善と宿命的なプリンス式独裁主義は、自ら国民に与えた議会制民主主義を蝕み」と手厳しい表現をしています。この只熊大尉も、クメール・イサラクに参加しており、独立が達成された後はシアヌークの政敵でした。命の危険を感じ日本に逃げた只熊氏は、カンボジア政府からビザ発給を拒否され、7年間を日本で過ごすことになります。カンボジアに戻ってきた後は林業などに従事し、日本人会の会長を務めました。

後年のシアヌーク殿下と只熊氏

シアヌークは自らの基盤を安定化させるために、敵対勢力の切り崩しとしてチュンを取り込みました。そして手厚く待遇していたものの、徐々に離反をしていった様子が見て取れます。またチュンや只熊氏の例からは、対抗勢力に対しては容赦しなかったシアヌークの残虐性も垣間見えます。

さて移動中のスマホからアクセスできるアーカイブではこちらが見つかりました。機密解除されたCIAの資料からは1956年にはチュンが王宮の衛兵隊長?を務めていて、1958年には准将に昇進し、シエムリアプの州知事を兼ねていたことがわかります。


尊敬すべきジャーナリスト、近藤紘一さんが書かれた「したたかな敗者たち」という、内戦下のカンボジアのことを取材した本があります。日本のように人口や経済で世界的に大国だった国とは異なり、大国の間でバランスをとって舵取りをする小国ならではのセンスは、シアヌーク前国王も、そしてフン・セン前首相も、何か相通じるものがあるのかもしれません。

チュンの半生やクメール・イサラクの活動については、シアヌーク時代に、その功績が隠蔽されたと言われています。残留日本兵による独立闘争への参加なども公式には記録されていません。明治時代に徳川幕府を作った家康が否定的に評価されたような、そのような意図的な状況が現在まで続いているように感じます。このような資料をお持ちの方がいらっしゃいましたらぜひ教えていただければと思います。

まとまりのない文章になってしまいましたが、最近ご無沙汰だった、プノンペン⇄シェムリアップ長距離移動中の執筆と投稿ができました。

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