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【息ぬき音楽エッセイvol.4】bloodthirsty butchersと見立て by 村松社長

みなさまこんにちは。カロワークスの村松社長です。
夏らしい気温の毎日が続きますね。今年はマスクの息苦しさも相まって、ひときわ体に堪える暑さ…。
今回は夏にまつわる名曲と、実は身近にある、ひとつの「文化」のお話です。

私がbloodthirsty butchersを知ったのは高校生の頃、『Indies Magazine』という雑誌を通してでした。
『Indies Magazine』はリットーミュージックが発行していた小さい判型の雑誌なのですが、毎号付録に20曲くらいの音源が入ったCDがついていたんですよね。いま考えると贅沢な仕様です。
今回の記事を書くにあたっていろいろと検索していたら、付録CDの全収録曲を自力でまとめている方のウェブサイトを見つけました。こうした個人の力によるアーカイブって貴重ですね…

11号くらいまでしか追っていなかったので知りませんでしたが、1995年から2001年に終刊するまで54巻も出ていたという事実に驚愕しました。収録曲のリストやその頻度を見ると、この時代のインディーズバンドブームがどのくらいの熱量を持っていたのか、何となくおわかりになると思います。

話が逸れましたが、このIndies Magazineのvol.7、2曲目に入っている「8月」という曲、これがブッチャーズに初めて触れた曲でした。

bloodthirsty butchersは1986年に結成された北海道出身のギターバンドで、2013年にギター/ボーカルの吉村秀樹さんが急逝してからは事実上の活動休止となっているものの、いまなお熱心なファンも多い伝説的な存在です。

そして「8月」は1996年にリリースされた4枚目のアルバム『kocorono』に収録されているのですが、ブッチャーズを紹介する上でこのアルバムに触れないことは不可能、というくらいに、ブッチャーズというバンドと『kocorono』は表裏一体です。

ブッチャーズも『kocorono』もすでにたくさんの方がアツい解説・分析・感想を綴っているので詳しい説明は省きますが、一聴するとオーソドックスなオルタナ系ギターサウンドのようでいて、実はかなり計算して作り込まれているという(良い意味で)ひねくれた部分と、不器用で切ない吉村さんのボーカルが合わさった、ブッチャーズの特長てんこ盛りの名盤です。
(ちなみに『ギター・マガジン』2020年7月号「ニッポンの偉大なギター名盤100」第4位に選ばれたそうです!私的には1位!)

『kocorono』は「2月」という曲から始まり、アルバム全体を通して「12月」までの1年をそれぞれの季節と心情で描いているという、ひとつのコンセプトアルバムとしても素晴らしい完成度に到達しています(”幻の”と言われていた「1月」という曲は2010年に発売された『kocorono 完全盤』に収録されています)。

中でも名曲中の名曲と言われているのが「7月」。

ここにあるだけの夢を川で遊ばせ 流れにまかせて流れに逆らい
夜には静かな炎が燃え始め 君に伝えたいだけ どこにも君はいない
嘘につつまれることがとても多く 君の言うとおり何とか目をそらす
熱くなった体を川で何とかさます 流れる想いは僕を永遠に連れてく
照りつける陽の下で流れる水に浸かり 君を忘れ暑さをしのんでいる
かげろうが邪魔する 僕の視界を邪魔する 去年は君と泳いでいたのに
暑い夏の陽よどうして乗り切れば このままではすべて流れて行きそうで
僕を呼んだような気がして セミの声は響く

あふれるくらい たくさん星の下 あふれる涙を必死におさえている
星もないてる 僕も涙止まらない ゆすらないでくれ さわらないでくれ

『kocorono』がアルバム1枚で1年の時間の流れを表すように、「7月」では1曲の中で昼から夜までの時間の流れが表現されていることがわかります。
転調後、"あふれるくらい〜" で始まる切なすぎるメロディーと歌詞が爆発すると、毎回聴いている私も「ゆすらないでくれ」状態になってしまいます…。やはりこれは名曲と呼ぶしかない…。

ここで告白しますが、実はわたくし高校生からずっとブッチャーズを聴き続けていたわけではなく、3年ほど前からふと思い出して再聴しています。
いろいろな方が言っているように『kocorono』は何度聴いても毎回違う発見があるので、おとなになった今聴いても新鮮(で、毎回泣ける)。

そしておとなになってから「7月」をヘビロテしているうちに、発見したことがあります。
転調前「セミの声は響く」の後に、約20秒という少し長めの時間、ギターの反響音(リバーブ?っていうんでしょうか)だけが響く”間”があって、高校生の頃は聴き流していたのですが、改めて聴くとこれってまさか「セミの声」をギターで表現しているのでは…? つまり「見立て」なのでは…?と思い当たりました。

見立てとは、文字通り「何か」に「何か」を「見立て」、なぞらえること。砂や小石を「水の流れ」に、大きな石を「須弥山」(仏教で、世界の中心にあるとされる山)などになぞらえる枯山水が有名な例です。

「見立て」というと日本庭園や茶の湯の世界、盆景や歌舞伎など日本の文化、特に「見立て狂い」と言われた江戸時代に流行したイメージだったのですが、この本を読むとそれは偏見だったことがわかります。

日本では盆景・縮景芸術にかんする最古の文献が『日本書紀』だそうですし、盆景のルーツ・中国では紀元前から続く文化で、それがベトナムなどにも伝わったそうです。
そして「風水」とそれに影響を受けた「都市の設計」、「生け花」、18世紀フランスで流行した「見立て肖像画」、現代では「ファッション」、子どもの「ごっこ遊び」、「お土産品」の数々…。
言われてみると現在でもいたるところに「見立て」文化があることに気がつきます。

印象的だったのは、この本の「見立て[として]の記号論」(立川健二著)という章の中で述べられていた「翻訳」という話題。
どういうことかというと、記号論の世界では(日本語や英語などの)自然言語だけが、唯一すべての言語を翻訳する能力を持つがゆえに、特権的なポジションを占めている。つまり自然言語は他のあらゆる自然言語も、音楽や舞踏といった視覚記号や音楽記号などの自然言語以外の記号組織も翻訳できるが、その逆はできない(たとえばあるダンスを言葉では説明できるけれども、カントの『純粋理性批判』をダンスで説明できないように)。
この前提に立つと、「見立て」は違う記号組織間の「翻訳」の実験なのではないか、と著者は言うわけです。

ブッチャーズの『kocorono』は、一見日本的な季節の移り変わりとかセミの声を、音楽という手法で「見立て」、世界に向けて翻訳した、と言ったら言い過ぎでしょうか。

今までにない状況下で、実際の海や山へ出かけられない夏を過ごした方も多いかと思いますが、こんな時こそ「見立て」の想像力を働かせてみる機会かもしれません。

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今回ご紹介した『現代・見立て百景』の出版元である「LIXIL出版」。LIXILギャラリーとともに、今年の秋で終了することが発表されました。
京橋にあるLIXLギャラリーは何度か足を運びましたし、何よりLIXIL出版の本は今回ご紹介したものをはじめ良い本ばかりなので、本当に残念です。
新刊の発行は今年で終了ですが、販売は2022年まで続けられるとのことなので、気になる方はぜひこちらをチェックしてみてくださいね。





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