見出し画像

アナログネイティブ

私の体内時計は常にアナログ時計が流れる。
最近では人間関係もアナログであることに気づいた。例の娘のせいである。

側から見れば生産性はこれっぽっちもないだろう。金も未来も作らない、そう思う人も少なくないだろう。だが私は今と心を生み出して、今日すらも“明”るい“日”にする。それ故の明日である。金を求めるのではなく愛を配る。

デジタルに生きる人ほど今を楽しむ私に追い風を吹かせては無音で過ぎ去る。
アナログで生きている人の足音は秒針のように懐かしさと温かさを覚える。

しかし人それぞれの時計のありようは違う。新しくデジタル体内時計を買う者もいるだろう。しかし、見えるものにしか興味がない者と見えない物事にまで感謝ができる者とでは天と地ほどの差がある。

私はこれらをデジタルとアナログを用いて記していく。

急ぐ彼らのゴールは私よりはるかに高い家賃や地位で過ごす時を目指しているのだろう。

しかし高層ビルからは夜景を見下ろすことしかできない。

デジタルが沢山の光を見下ろしている時、
私たちは野原に寝そべり綺麗に燃える星を見上げる。

私は昼間にだって星を見よう。
雲だっていずれつかんで見せる。

仮に都会の屋上で空を見上げても、残業中の蛍光灯や一夜限りの寂しい常夜灯が照らす夜空では満足に星も輝くことはないだろう。ため息が月を隠してしまうように。

目的が定まっている分、視界は良好であるが“欲”を出した瞬間に視野は一気に狭まる。肉食動物のように。

草食か肉食かといえば私はどちらに属するだろうか。運動する時の私は肉食だろうか。いや、でも視野は常に広いなぁ。足の早い草食動物なんて良いなぁ。それじゃあ馬のようになってみようか。暇になったら羽をつけてペガサスにでもなって、雲でも掴んでみようか。
この寄り道こそアナログの真髄である。

都会というのは右往左往できるほどの暇も空間も関係もなければ上下だけやたらと長くできている。

アナログの私たちは横に繋がるご縁に感謝して確かな前へと命を運ぶ。挫けても必ず帰りたいと思える温かな場所があり互いに支え合い生きている。離れていようが気持ち次第でいくらでも繋がれる。アナログは信じたいようにこの世を見せてくれる。

どっちが成功でどっちが利口か知ったこっちゃない。ただ、アナログのほうが“私”は楽しい。

クロノスタシスと名付けられた僅かで曖昧で不規則なズレ。怒鳴るデジタル時計と、一緒にいびきをかくアナログ時計。同じ時計が刻む違う時分。

アナログで交わす心ほど温かいものはない。この時のおかげで心をより厚く温かくして守って生きていける。

デジタルに生きた方が、「効率は良い」に決まってる。しかし、この生産性もなく無意味と思えるアナログのひと時がいつしか私の心だけでなく大切にしたい人も守るものになると信じている。

なんでも薄くて、小さくて、手軽なデジタルでは守るにも限界がある。

しかし、社会の鞭、重圧のハンマー、無感情のナイフも決して私の心には届かない。なぜなら

確かに実在するアナログのひと時がこんなにも分厚く胸ポケットにはいっているのだから。


さぁ、
明るい日を未来と呼ぼう。
悠か先で最高の未来が僕を待っている。

俯くこともなければ見下し奢ることもない。
最も高いものが今と錯覚した時、人は亡くなるから。

私は今日も明日も空を見上げるよ。
夜でも朝でも昼間でも星を見よう。
曇った日でも月を信じて、星に願って
私は私らしく生きぬくよ。

この先もきっと、私から夢も希望も無くなることはないだろう。

見上げていても見守っている。


いつでも星が流れたい時に見送ってあげられるように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?