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『PERFECT DAYS』(2023)

「光源」から照射された「影」

PERFECT DAYSが指すものは平山のルーティンワークである。トイレ清掃員として、箒をかける音で起き、家の前の自販機でコーヒーを買い、カセットテープを流し、清掃、木漏れ日を見る。居酒屋の女将から「平山さんはインテリね」と言われるような平山の生活は、私たちが見過ごしていた何気ない瞬間を大事にしているのだ、と思うかもしれない。本当にそうなのか。
親族と別れたあとの涙はなんだったのか。
女将の元夫と影を重ね合わせるときの「何も変わらないなんて、そんな馬鹿なことあってたまるか」というセリフはなんだったのか。
夢の中での暗くぼやけたイメージから想起される平山の「影」の部分。
シャンタル・アケルマン「ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地」では彼女の自尊感情、夫の喪失から身を守るかのようにルーティンワークを行っていた。そしてそのルーティンワークのズレから徐々に正気を失っていく。彼女にとってのルーティンワークは、失われた秩序を補填する「新しい秩序」だったのである。

「過去」から照射された「今」

平山のルーティンワークは何から身を守っていたのだろうか。それは「過去」だろう。姉の裕福な人物像と父親との不仲のほかに彼の過去はほとんど明かされないが、姉と別れたあとの涙から「過去」になにかがあったことがわかる。何かから照射され、できあがる影。平山は過去に照射されている(捉えられている)のである。過去に照射された平山は影を落とす、それが「今」である。
つまり、
「光」→「影」
「過去」→「今」
と表せる。

「今」が印象的なセリフは二つあった。
・「今度は今度、今は今」
・「何も変わらないなんて、そんな馬鹿なことあってたまるか」
二つ目は元夫と影で遊んでいるときのセリフであるため、「(影)が何も変わらないなんて…」という意味であった。このセリフを先ほどの対置に当てはめると
「(過去から照射された今)が何も変わらないなんて、そんな馬鹿なことあってたまるか」と置き換えることができる。
私たちは平山の「今」、PERFECT DAYS=ルーティンワークを観ていたわけであるが、それは「過去」に失った秩序を補填するためのものだったのである。

PERFECT DAYSのその先

平山は「過去」から照射された「今」をどうみているのか。

・「何も変わらないなんて、そんな馬鹿なことあってたまるか」
・日常の木漏れ日的な契機
・ラストの表情

一つ目のセリフは上記の通り、「今」の状況からの変化を望んでいる。つまり、平山のPERFECT DAYSが逆照射するように過去を思い起こさせる、過去に囚われている状況から抜け出したいのだと読み取れる。しかし、平山の作り上げた新たな秩序は「過去」の失った秩序から身を守るものでもある。

二つ目は丸バツゲーム、ランチを食べる公園の女性、同僚の女友達からのキス、姪の来訪などを指す。映画において、これらの話は物語的な回収はされない。〇✕ゲームの相手はわからず、公園の女性とも話はしないままであった。平山はこれらの木漏れ日的な瞬間に微笑むのである。それはPERFECT DAYSから、過去の囚われから抜け出す契機を見出すからだ。

三つ目は決定的なシーンであった。終盤では平山のルーティンは少しずつズレが生じる。喫煙、駅地下の居酒屋は混んでいる、現像した写真を選り分けない、缶コーヒーを二本買うなど。そして、ラストの表情である。清掃に向かうため、車で走る平山は微笑み、眉をひそめ、涙をこぼす。チグハグな感情に朝日が差し、影になり、また朝日が差し込む。「過去」と「今」が平山の顔に映る。

平山は「過去」から逃れることも「今」を変えることもできない。「過去」から守るために作り上げた秩序、PERFECT DAYSに先はないのだ。

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