毒親からの避難所 ①それは雪かきに似ている

 反対車線をはみ出すほどのブルドーザーが、雪下からコンクリートの鬱色をめくりあげる。そのそばからまた完璧なまでの化粧が施されていく。そして三分もしない内に元通りになる。冬の白さは純潔だね、とため息をつく人々がいる。毎朝の雪かきに追われた経験があるかどうかで、ため息に込められた意味は変わってくるだろう。実は、毒親の問題に通ずるものがここにある。どちらも誰かがやらなくてはならない。そして雪が降る限りは終わることもない。対話はフィンブルの冬のごとく吹き荒ぶが、心は地獄の窯よりも煮えたぎっている。あるいは冷え切っているのは心で、燃え上がっているのが口の方なのか? せめて玄関の雪だけは、と重い腰を上げて外に出たのは、いつが最後だったろう。軒先でお隣さんに見せるだけのこの作り笑いが、いかんともしがたいほど憎たらしくなったのは、いつが始まりだったろう。

 1994年11月2日、南秋田の片田舎。雪国のありふれた昼下がり、夕闇色の吹雪のなかで僕は産声をあげた。アトピー性皮膚炎を持って生まれた僕には、何とかこの苦痛を止めたいと強い意志を持った両親がいた。
 僕の最古の記憶はこうだ。三歳になって間もない頃、両親と一緒にお風呂に入る前、洗面台の鏡の前まで持ち上げられて見えた自分の顔はひどく赤らんでいた。幸か不幸か、搔痒感に煩わされた記憶はあまりない。両の前腕がまるで台地の形をした腫れものに覆い尽くされていたことは鮮明に覚えているが…
 そんな生まれつきのハンディキャップにもかかわらず、この頃の僕は幸せの絶頂にあった。純粋無垢ゆえの幸福は誰にでもあると言われるが、出来ることならそう信じたい。ところで、アトピーの話をすると五体満足で生まれたことに感謝しろと、一部の五体大満足に言われることがある。もっと重いハンディを背負って生まれた人だっているんだぞ、と。だがハンディを抱えて生きている人は、他人のハンディを評価などしない。生まれつきは生まれつきであり、その負荷は当人だけが所有しているのだ。それを本人が負債と取るか、資産と取るかはさておき、そこには本来、悲観も楽観もなかったはずだ。だが、後からついてきたものは? 不注意な比較や、無頓着な正当化は?
 話を戻す。世の中には子供に当たり散らす恥知らずな親がいる。無視しがたい人生の隙間を手軽に埋め合わせたくて、彼らはみずから解決すべきだったはずの問題を子供の献身につけこんで背負わせている。時代の変遷につれて”毒親”という造語として世間に認知されてはきたが、古来よりそういう親は確かに存在していた。ただ深い深い、雪の下に隠れていただけなのだ。そして、我が父も母もそういうタイプとは対極に位置していたはずだ。そうでなければ、片道百キロにわたって源泉かけ流しの温泉に週3で通い、アトピーを克服させてあげようなどとは考えもしなかっただろう。
 僕はそんな両親のことが大好きだった。これまでに彼らが出会ったであろう、彼らを愛した人々の誰よりも。
 だから、両親の店に来てくれるお客さんに肩たたき券なんかを作って親切にしたのは、当時の気持ちをお裾分けしたかったからなのだと思う。溢れんばかりの幸せを。


***


HINANです。初投稿です。

最近になり、親への憎しみに囚われることを遂にやめられそうなので、ここに僕の試行錯誤の軌跡を残していくことにします。

毒子歴20年・うつ病2年経験・ASD疑い(今年になって発覚)・アダルトチルドレンの僕ですが、同じような親子関係に苦しんでいる方々のために何かできないかと思い、実体験などを交え、いくつかのTIPSを投稿していこうと思います。また毒親と言われてしまった親御さんのためにも、子供側の視点から心理を知ることで、これから自分がどうしたいのか (※どうすべきか、ではなく) を考えて行動するための道しるべになれればいいかな、と。

ゆくゆくは、この一連の投稿が、親子の絆という縛鎖に染み込んだ毒から逃れるためのHAVEN(避難所)になっていければと思います。ちょっとおこがましいですかね。だから”一緒に頑張りましょう”とは、あえて言いません。”お互い、本当の出口を見つけられたらいいね”とだけ添えておきます。


○投稿の基本構成
① エッセイor社説
② TIPS
③ あとがき

なるべく冗長にならないように心掛け、通しで3000-4000文字程度に収めて書いていくつもりです。それ以上に長くなる場合は前後編に分けます。

あとがき
 2018年、滋賀県で医学部9浪の女性が実母をばらばらにして殺害した事件を、読者のみなさんはまだ覚えていますか? この頃から”教育虐待”という言葉がメディアで頻繁に使われ始め、独り歩きしはじめたのを記憶していますが、正直いって僕はこの言葉が好きではありません。というのも、”教育”と”虐待”は本来くっつくような親和性を持つ単語ではなく、毒親問題に絡めるだけの本質を説明していないからです。つまり、行き過ぎた教育は虐待の要件を満たすことすらある。だから教育は一方的になっていけない――というよりは、被害を受けている当人がそれを被害だと認識し、明確に主張できない問題があったからこそ、それは気がつけばのっぴきならない問題と化している――のが本質ではないでしょうか。要するに、ただそれを外野が虐待とあとづけで呼んでいるだけで、問題解決の役には立っていません。マスコミのための言葉でしかないわけです。家族間というろくな逃げ場もない世界だからこそ助けを求めるのも困難を極め、それで環境と出来事の不幸な組み合わせを一身に背負ってしまうケースが程度の大なり小なりあって十人十色に苦しんでいるのです。人が介入できる範囲は限られるがゆえに、法の介入も限られる。それはメカニズムゆえに覆せないことであり、心細さのなかで孤独を意識せざるを得ないからこんなにも苦しいのです。
 だからこそ、自分でデトックスできることに限っては、落ち着いて考えられる場所が必要だと思いました。まずは第一に、自分にとって。

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