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自分の気持ちに向き合うこと――拒食症一歩手前を思い出す

※汚い描写があるので、読みたくない人は飛ばしてください。

最近パソコンを起ち上げて仕事をしようとすると、レタスクラブのマンガで高校生が拒食症に陥る話から目が離せない。
この子、これからどうなっちゃうのかと先が気になるのだ。

なぜかというと、今はただの大食いだが、こんな私も拒食症一歩手前までいったことがあるからだ。
食欲が旺盛でぽっちゃり体型。それに比べて周りはやせていてかわいい子が多い高校生活。
マンガか何かで知った、食べても吐けば体重は増えないんだと知った日。

そんな方法があるんだと、私もある日、食べるだけ食べて、試しに口に手を突っ込んで吐いてみた。
吐く行為は苦しかったけど、食べてもこうすれば太らないんだと思った私は、家ではこっそりそうすることが習慣になった。

少しでもやせたい気持ちから「吐く」ようになったのだが、たぶん体型の悩みだけでは、そこまでする必要はない。

考えてみると長女だからがまんしなければならない、という思いが強かった。
途中で父親も亡くなったから、よけいにそういう思いが強まった。同じ敷地内に住んでいる祖父母にも母にも迷惑はかけられない。
自分だけががまんすればよい。
いろいろなことをがまんしていくと、自分の本当の気持ちにも向き合えなくなってくる。
やりたいことが何かもわからずに、ただ目の前の勉強だけに打ち込んだ。

しかし、そのがまんしていた思いが、ある日からタガが外れたように食べ物に向かう。
飢えた心を満たそうと食べ物を口に入れる。
母が買っておいたお菓子類を食べ、冷蔵庫に残っている余り物を食べ。
それがなくなると、自分でもスナックやお菓子などを買い込む。

大食いすると、味はどうでもよくなる。
おいしいという気持ちははじめだけ。あとはひたすら袋を空にするだけ。
胃に食べ物を詰められるだけ詰め込むのだ。

そうすると、空っぽの心が一瞬だけ満たされたような気持ちになる。
口を動かしている一瞬だけ、心が満たされるような錯覚に陥る。
そのときだけ、他には何も考えなくてもすむ。

しかし、吐くときの苦しさ、むなしさ。
全部吐き終わってからの罪悪感。
終わったあとには、涙が出てくる。
これを何回繰り返せばよいのだろう。
明日はどうなってしまうのだろう。
考えても、考えても出口が見えない。
そう毎日を過ごしていた。

しかし、私が通っていた学校では、拒食症にかかっている人が何人もいた。
今思い出せるだけでも、同じクラスで3~4人はいた。
みんな腕が信じられないくらいに細くなり、そして毛深くなり……。
他のクラスのあの子、ずいぶん見かけないなと思っていたら、入院したうわさも聞いた。

それを見ていたら、いたたまれなくなった。
私が入院するようになったら、家族が苦しむ。家族に迷惑はかけられない。
それと、吐くことに疲れてしまったのか、いつしか吐かなくなった。

がまんして自分の心を押し殺すのが長くなると、自分の気持ちを表に出すのが難しくなる。人のかげに隠れて目立たないように生きてきた。
自分が本当はどう思っているのか、人に表現するのが苦手。
「書くこと」を仕事にしたいのに、言語化するのが苦手と言っていたら致命傷である。自分の気持ちに向き合い、それを文字にするのがとても苦しく思う今日このごろである。

その不安な気持ちが、拒食症の少女のマンガに釘付けになってしまう理由なのだろうか。
これからどうなってしまうのか、ふとした瞬間におそわれる。楽観的に自分を肯定的に受け止められる日と、これでいいのかな自分、と心が迷子になる日が交差する。

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