見出し画像

【名盤伝説】“Derek And The Dominos / Layla And Other Assorted Love Songs”

お気に入りのミュージシャとその作品を紹介しています。エリック・クラプトンデレク・アンド・ドミノス名義で1970年にリリースした歴史的名盤『いとしのレイラ(邦題)』です。

クラプトンは1963年に若干18歳でUKのブルース・ロックバンドヤードバーズに参加します。脱退後に同じくブルース・バンドのジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズに参加。さらに1966年にはクリームを結成し、ブルースをベースとしながらも、それには拘らないポップでサイケデリックなハード・ロック・サウンドで人気を博します。

1968年にバンドが解散し、当時のスーパーバンドのビートルズを含む様々なセッションに参加する中で、1969年秋からロンドンでソロ・アルバムの制作に入ります。同時にスティーヴ・ウィンウッドらと共にブラインド・フェイスを結成して活動する一方で、USのデュオのデラニー&ボニーの活動にも関わるなど、当時のクラプトンの活動はカオス状態ですね。

1970年8月にようやく初ソロ・アルバム『エリック・クラプトン』がリリースされます。ただレコーディングを終えた後も曲作りは進められていたようです。デラニー&ボニー(&フレンズ)のツアー終了後に、ホビー・ウィットロック(Key)、カール・レイドル(Bs)、ジム・ゴードン(Drs)らとバンドを結成(デレク・アンド・ドミノス)してセッションを加速させていきます。

ミュージシャンが何かに取り憑かれたように活動を加速させている時って、ゾーンに入っているか、もしくは相当なストレスを抱え、その発散のために音楽に打ち込んでいるかのどちらかみたいですね。この時期のクラプトンは恋煩い。その解消のために薬物にも依存してしまいます。

そんな中で、当時人気の出始めていたサザン・ロック・バンドオールマン・ブラザース・バンドのリーダーデュアン・オールマンとの運命的な出会いがありました。マイアミでレコーディングをしていたエリックが、プロデューサーの伝手で同地をツアーで訪れていたオールマンのステージを観に行ったのだそうです。知らずにステージに立っていたデュアンが客席にクラプトンの姿を見つけると唖然茫然でプレーが固まってしまったとのことです。それは驚きますよね。その後はデュアンがクラプトンのレコーデイングを見学に行き、クラプトンはなんと自身のバンドにデュアンをスカウトします。こうして多くの曲でお得意のスライド・ギターを披露してくれます。当然のように彼の名前は新作アルバムにも堂々とクレジットされます。

アルバムは1970年11月にアルバム『いとしのレイラ』は2LPでリリースされます。ところがバンド名そのものは全くの急ごしらえでしたし、レコード会社が何を思ったかろくに宣伝もされないままに、メンバーにクラプトンが参加していることもよく伝わらなかったようで、リリース当初は全く売れなかったのだそうです。この世紀の名盤に、そんな黒歴史があったとは・・・。

収録曲
LP-1
A1 I Looked Away
A2 Bell Bottom Blues
A3 Keep On Growing
A4 Nobody Knows You When You're Down And Out
B1 I Am Yours 
B2 Anyday
B3 Key To The Highway

LP-2
C1 Tell The Truth
C2 Why Does Love Got To Be So Sad?
C3 Have You Ever Loved A Woman
D1 Little Wing
D2 It's Too Late
D3 Layla
D4 Thorn Tree  The Garden

アルバムトップのA1。バンドのコンポーザーとしてのキーマンのボビーとクラプトンの共作。明るいブルース・ナンバーです。歌のバックでひたすら弾きまくるクラプトンと(多分)デュアンとの掛け合いは見事です。


一転泣きのブルースA2。クラプトンのオリジナル曲。ボーカルも途中のソロもクラプトン節炸裂です。今でも人気のナンバーです。


R&B系のビリー・マイルス作のブルースの定番C3。様々なブルース・セツションで必ずと言って良いほど演奏される定番ソング。「お前はまだあいつのことを惚れているのか」と自身の思いを振り払うかのような、クラプトンの鬼気迫るソロに鳥肌が立ちます。


ライバルとして、また敬愛するギタリストとして認め合っていたジミー・ヘンドリクスのオリジナルをカバーしたD1。まさかのジミーの突然の死にあたり、鎮魂歌となってしまったような悲しみが滲みます。


泣く子も黙るクラプトンの代表曲D3。前段の熱いブルース・ロックは当然として、後半のピアノ・パートで聴けるデュアンとの掛け合いの妙を堪能したいです。

コンサートでは後半部は長尺ゆえ省略されることも多いのですが、観に行った何度目かのクラプトンの来日公演、1990年のジャーニーマン・ツアーではフルで演奏されて大感動だったことを覚えています。同ツアーの本家ロイヤル・アルバート・ホールでの動画がこちら。オーケストラも入った超豪華版。日本公演でのシンプルな構成も本当に涙が出ました・・・生きてて良かったwって本気で思った瞬間でした。

この曲のイントロの印象的なリフが某R&Bシンガーの曲と似ているとの評がありますが、すみません、私にはそう聞こえませんでした。確かに似ているかなと思えないこともありませんが、パクってるとまでは言えないだろうということで、ネタ元音源は省略します。


アルバム制作がひと段落したところでエリックの緊張の糸が切れてしまいます。デュアンも無事に??自身のバンドに復帰します。ところがアルバムリリース直前の1970年9月には、自身のライバルとしていたジミ・ヘンドリックスが睡眠薬の多量摂取で死亡(真相には疑惑があるようです)してしまい、恋煩いも成就せず失意のどん底に・・・年内に数本のライブを行ったものの翌年にバンドは解散に至ります。

そして盟友ジョージ・ハリソンのチャリティ・コンサートへの主演を最後に(1971年8月通称「バングラデシュのコンサート」)、クラプトンは重度のヘロイン中毒による入院療養のため活動を休止します。

その後、1973年1月のレインボー・シアターで無事にコンサートに復帰し、翌74年にアルバム『461 オーシャン・ブルバード』で完全復活を果たします。

その後のクラプトンは、ブルース・ロックの巨匠としての道を歩み続けて現在に至ります。かなり大雑把に当時の彼の軌跡をたどりましたが、そこには多くのミュージシャン仲間達との交流があり、彼らの支えがありました。それはクラプトンの実力を皆が認めていたからに他なりません。ただの上手なギタリスト以上の何かを、彼が持っていたということだと思います。

いつの時代も、どんな人でも持つべきものは仲間だということですね。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?