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ご祝儀 10 〜わたし以外のオンナは死んで〜 【10話完結】

 トイレを済ませ、鏡の前に立ち化粧ポーチを出した。華やかだが悪目立ちしないようにと美容師に注文しまとめてもらった髪は全く崩れていない。鼻とその周りに油が浮いている。ティッシュで優しく押さえた。振り袖に負けないよう多少濃いめの方が映えますよ、と美容師に勧められたことを思い出し、汗でにじんだアイラインを強めに引き直した。口紅は普段つけない深紅のものだ。派手な気がして落ち着かないが、姿見で全身を映してみるとなじんでいた。はたちの時のような弾ける若さはないが、その分色香と呼ばれるものが加わっている。九月も後半だというのに蒸し暑く、座っているだけでぐったりしていたが、鏡に映る自分の姿を見てあかねは概ね満足した。きつく締められた帯が少し苦しかったので、外に出て風に当たった。ベンチに腰を下ろした。見上げると空は馬鹿げて青かった。
「退屈だね」
 振り返ると背の高い男が煙草を吸いながらこちらを見ていた。千賀の友人席にいたあの端正な男だった。
「……そうですね」
 あかねは警戒しながら答えた。いつからいたのだろうか。よく見るとここは灰皿が置いてあって喫煙スペースとなっていた。
「石川あかねさん」
 男は面白そうに発音した。「なぜ私の名前を」と問いかけたが、それは席次表を見れば一目瞭然だった。
「千ちゃ……千賀さんの、ご友人の方ですか」
「そうだよ。中学の時のね。同窓会以来だから、もう何年も会ってなかったけどさ」
 男は空に向かって煙を吐き出した。
「きみは、千賀の会社の子でしょ」
「はい、子会社の方ですけど……」 
 そう答えたが、初対面の男にわざわざ説明することでもなかった。
「今、感動の花嫁の手紙だってのに、きみは聞かなくていいの」
 男はいたずらっぽく笑った。
「私、ああいうの苦手なんです」
 あかねは男を見据えた。
「寒気がする」
 男は大きな声で笑い出した。
「やっぱり思った通りだ」
「え?」
「さっきからずっと見てたんだ。新婦の写真を撮りに行かずに、一人で黙々と食べててさ。面白い子だなって」
 あかねは急に恥ずかしくなった。
「やだ、感じ悪いですね私……」
「そんなことないよ、僕だって似たようなものさ。もう飽き飽きして逃げ出してきたんだ」
 男は鼻で嗤うと煙草を灰皿に押しつけた。「ご祝儀払って他人のマスターベーション見せつけられているんだもんな」
 穏やかな口ぶりだった。彼の形のよい唇から発音された「マスターベーション」は、初めて口に含む異国の果実のように甘美な響きがあった。あかねは絶句し男の顔を改めて眺めた。
「でもきみだって、いずれ結婚するだろう」「そんな予定はありません。それにもし結婚するにしても、結婚式も披露宴もやらないわ」
「どうして。披露宴はともかく、式は挙げてもいいんじゃないの」
「……誓いのキスなんか、誰にも見られたくない。ぞっとする」
 男は面白そうに笑っている。多少酒が回っているとはいえ、なぜ見知らぬ男にこんなことを言っているのか不思議だった。
「ねえ、二次会なんか行かないで僕と飲みに行かない?その方がずっと楽しいよ。どうせくだらないビンゴだ、内輪のサプライズだって、きみもうんざりだろ」
 男の顔を見た。中性的で甘い顔立ちをしているのに、射るような鋭い眼差しだった。目が離せなかった。
「じゃ、終わったら入り口のところで待ち合わせしよう」 
 男はそう言って背を向けた。
「え、ちょっと」
 すると顔だけ振り向いて、
「着物、似合っているよ。花嫁が哀れなほどね」
 男はポケットに手を突っ込み去って行った。 
 席に戻るなり席次表を開いた。男は沢村拓海という名前らしい。 
 披露宴は終わりに近づいていて新郎新婦からの記念品贈呈という項目まできていた。千賀と珠理奈はそれぞれの両親にテディベアのぬいぐるみを渡した。
「このテディベアは、産まれた時の新郎新婦と同じ重さです。お二人が誕生した日の喜びをもう一度ご両親に味わっていただきたいと、感謝の気持ちを込めて用意したものです。そして今、珠理奈さんのおなかの中には新しい命が宿っています。なんて素晴らしいことなのでしょう……」
 自らに酔っているような司会の女のナレーションが耳に入る度に、動揺はかき消されていった。千賀の母と珠理奈の母はハンカチを目元に当て涙ぐんでいた。珠理奈は当然のこと、千賀も泣いている。確かにマスターベーションかも知れない。珠理奈の友人たちは前に出て、涙を流しながら写真を撮りまくっている。
「よくもまあ、思いつくわ、あんな演出」「テディベアねー」  
 すっかり酔っ払った聡子と麻紀は、だらしなく椅子にもたれかかり悪態をついた。後ろを振り返りあの男を見ると、同じテーブルの千賀の友人たちとワインを飲みながら喋っていた。目が合うと男は意地悪そうに微笑んだ。
 披露宴が終わりトイレで口紅を直していると聡子が来て、引き出物の入った紙袋をどさりと洗面台に置いた。
「やっと終わったね。仕事より疲れた」  
 深緑のワンピースは彼女の白い肌をより美しく見せていた。  
「聡子ごめん、二次会出ないで帰るわ」
 あかねが謝ると彼女は目を丸くした。
「なに言ってんの、私も最初から出るつもりないって」
「そうなの?なんか流れで、行く雰囲気になっているのかと思った」 
 聡子は鏡に顔を近づけ、やや汗ばんだ頬に乱暴な手つきでファンデーションを叩き込む。
「まさか。別に仲良くないし、これ以上お金払いたくないし」
「そうね、私たち仕事の一環で参加させられただけだもんね」
「麻紀ちゃんは行くって。二次会から来る人もいるし、出会いを期待してみるってさ。私、彼氏が迎えに来るまでここで時間つぶしてくわ」
「そう。じゃ、また会社でね」
 ロビーの隅の方で、麻紀と千賀の会社の仲間たちが円になってにぎやかに談笑している。あかねは声をかけずにクロークへ向かった。預けていたキャリーケースを受け取り、食器と思われるやたら重い引き出物を詰めた。スマホが震え、開くと千賀からメッセージがきていた。『今日はありがとう。バタバタしていてなかなか連絡できなくてごめん。あの夜のことが忘れられない。あかねちゃんと早く話したいです。また連絡するから』読み終えると同時に消去した。外に出ると、入り口のそばの喫煙所で沢村拓海が煙草を吸っていた。あかねに気づくと煙草を消した。彼は奪い取るようにあかねのキャリーケースを持つと「行こうか」と皮肉な微笑みを浮かべた。あかねの返答を待たずに彼は足早に歩き出した。

(了)


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