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なぜ自分はそこまでその人を受け入れられないかを考えてみた

「相手も自分もワンストライクアウトにしない」

これはとある講演会で、エッセイストの方が”歳を経ていく中で気を付けていったらいいこと”として教えてくれた言葉である。

まさに私はワンストライクアウトしがちで、一度ダメなことがあると他人も自分も、もう受け入れられなくなる傾向がある。

自分に対しては、アウトにしたところで付き合い続けなくてはいけないので、なんとかセーフになるように思考をあれこれ屈指するのであるが、他人に対しては、反射的に物理的にも心情的にも距離を取ってしまう。

アウトの判定を見返す(本当にアウトなのか、実は事情がわかればセーフになるのではないか)ことをしない。できないのである。

これはどうしてなんだ?

まずアウトにするのは、
①大抵その人が筋が通らない事をしている/ 言っている時
②周りのことを考えずに自分さえよければを発揮している時
③不公平、不平等な扱いを受けた時
であった。

これらは自分に対してされた時であるが、もうひとつ自分の大切な人に対してされた時もであった。

①も②も③も、自分の知り合いではあるがそれほど大切ではない人に対してされている時は特になんとも思わないが、自分の大切な人(家族、友人、推し含む)に対してされた時は感情移入してしまうからだと思う。

これらをされると怒りとか嫌悪感とか悲しさとか負の感情があふれてくる。
このあふれ出てくる負の感情がまず耐え難い。

そして、①②③のことに対して相手に意見をすると、更に負の感情が増幅する可能性があることをどこかで予測しているのかもしれない。

既に耐え難い負の感情があるのにこれ以上辛いのは嫌だ!
ということで、それを避ける為に『ワンストライクアウト』にしてゲームセット、もう関わらないようにする。
負の感情でこれ以上自分が傷付かないように自己防衛しているのかもしれない。

しかし「相手に意見をする」⇒「更に負の感情が増幅する」とは本当にそうなのか?

意見を言ったり、議論をしたり、話し合いは必ずしも結果が負の感情を生み出すものではないはず。
じゃあなんでそう思うのか?

これはもう経験からくる条件反射なのかもしれない。

似たような価値観とか思考の人であれば話が通じやすいから安心して議論をしようと思う。
信頼しあっていれば、悪い風にはとられない/とらないから安心して議論しようと思う。

でもこういう人が周りにいない、反対に価値観も違うし信頼しあっていない人との議論の経験ばかりを積んでいったせいで、「議論」⇒「負の感情を生み出すもの」というセットが自分の中のデフォルトになってしまったのかもしれない。

自分を守るために、負の感情を生み出さないために、議論を避けた結果、ワンストライクアウトにしている。
経験からくる一種のトラウマになってしまっているのかもしれない。

数年前の私は人のことを信頼していたし、人に対してなかなか諦めることをしなかった。
でも、とあるきっかけで環境も接する人も変わって、人を簡単に諦めるようになった、信頼しなくなった。
そこからワンストライクアウトを頻発するようになっている気がする。

今の狭い世界と狭い人間関係のみの生活から脱却しよう。
色々な人と知り合って、考え方の交換をできるようにしていこう。
そうすることでワンストライクアウトをしないようになれるかもしれない。


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