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歩いているのは誰か、語っているのは誰か(奥泉光『石の来歴 浪漫的な行軍の記録』)

奥泉 そうですね。いろいろなテクストのもつ虚構性をX線写真みたいに浮かび上がらせてくれる。同時に、物語がはらむ虚偽性から逃れながら、どのように出来事を語るか。語りうるのか。その課題を『ポロポロ」はつきつけてくる。

加藤 面白いですよね。ただ、同じようなことを奥泉さんも自覚的になさっていますよね。 ご自分の作品について語るのは嫌でしょうが、私は『浪漫的な行軍の記録』(二〇〇二年) の文体が面白くて、はまりました。ところどころ、突然、文末が丁寧語になっています。 あの語りが面白くて、聞き手の緑川に言っているのか、それとも読者に言っているのか、 回想のなかの戦友に言っているのか。「でした」とか可愛らしいんですよ。たとえば、「できない、できない、と思っていても、人間やろうと思えば色々とできるのでした」など。 文末に躍動感があります。

奥泉 単一の語りに閉じ込めない工夫でしょうね、自分で言うのもなんですけど。単一の声の語りは、どうしても小説世界を単一の物語に閉じ込めてしまいがちになる。だから語りを多声化することは、小説が物語から逃れる一つの有力な方法です。とはいえ、多声性を獲得するにはどうすればいいのか、答えが簡単にあるわけじゃないんですけどね。しかし、もし小説というものに戦争体験を扱う意味があるとしたら、このあたりでしょうね。 フィクションを武器に多声的に戦争の経験を描くこと。でも、現実にはなかなかそういうふうにはなっていなくて、むしろ単一の物語に叙述を染め上げてしまう小説のほうがはるかに多い。 大西巨人はこのことを「俗情との結託」という言い方で批判しています。

奥泉光、加藤陽子『この国の戦争 太平洋戦争をどう読むか』(河出新書、215-216頁)

「語りを多声化すること」。そのために、この小説では、「夢」という仕掛けが用意されている。それは冒頭の一文から始まっている。
 冒頭の一文について。加藤と奥泉は、大岡昇平の『レイテ戦記』の書き出しに言及している。その書き出しはこうだ。「比島派遣第十四軍隷下の第十六師団が、レイテ島進出の命令に接したのは、昭和十九年四月五日であった」。加藤は、大岡が訳したスタンダール『パルム僧院』の出だしと呼応していることを指摘し、「レイテ島」を叙事詩として描こうというある種の意思表示ではないかと指摘する。なるほど、冒頭の一文はやっぱり大事なのか。そんなことを考えながら、「浪漫的な行軍の記録」を読んでみる。

さっきから私はずっと歩き続けているのだけれど、いつから自分が歩き出したのか、ほとんど思い出せないのは、歩きながら眠るせいである。

『石の来歴 浪漫的な行軍の記録』(講談社文芸文庫、111頁)

 これは単に行軍の辛さを言っているだけのようでもあるけれど、読み進めていくと、歩きながら眠る=歩きながら夢を見るということだとわかってくる。
 そして、歩きながら見る夢を介して、「私」の語りは一気に戦後に飛んだりもする。

いま、こうして歩いている私も、だから当然、休止の号令を待ち望んでいる。いまこの瞬間に、ショーキューシッ! の号令がかかって、乾いた地面に寝そべることができたらどんなに素敵だろう。ここでひとつたしかなのは、いま私が歩いている以上、前回の休止のあと、出発の命令を聞いて、私が歩き出した点だ。仲間に叱咤され頰を張られても、「後から行くよ」と気弱く頷くだけで、決して後から来なかった者でないのはたしかである。私は命令で歩いている。ならば私が永遠に歩き続けている道理はないのであって、休止から次の休止までを歩いているにすぎない。前回の休止はあるいはほんの五分ほど前だ ったのかもしれない。なのに私がいつから歩き出したのか思い出せず、永遠とも思われる長い時間を歩いていると感じるのは、やはり私が歩きながら眠るせいなんだろう。
 夢のなかでも、私は自分の足音を、行軍する兵士たちの足音を絶えず聞いている。それは空気を重たくふるわせる軍靴の響きではなく、裸足が土を踏む、ひたひた、と鳴るもの 悲しい音である。もう誰も靴を履いている者はないのだ。ひたひた、ひたひた、ひたひた、ひたひた。たとえば、縁側に佇む冴えないクソジジイである私も、同じひたひたを聞き続ける者である。糞爺。私にこの呼称が与えられたのはもう遥かな昔、谷間のはずれの家に私が住みはじめた頃の話で、鶏小屋の卵や柿を盗みに来る近所の悪童を、私はクソガキと罵って追い散らし、返礼に彼らは私にクソジジイの称号を与えた。私をクソジジイと呼んだ子供らはとっくに成人し、結婚して子供をもうけ、その子供らもまた親に輪をかけクソガキであり、当然の権利のように我が領土を侵犯し、当たり前のように私をクソジジイと呼んだ。かくて私と近隣のガキどもとの抗争は世代を超え、だから私は何十年ものあいだクソジジイなのであり、それほどの長きに亘って、ひたひたと鳴る行軍の足音を私 は聞き続けているのだ。
 夢の時間は伸縮自在であるから、夢で私は何時間も、何日も、何年もの時を過ごす。ときにはゆうに人の一生分の時間が経験されることもあって、その一生のあいだ私は聞き続ける。ひたひたひたひた。 胡蝶の夢というなら、この胡蝶は行軍の足音をひたすら聞き続ける蝶々である。

同上書、136-137頁

 このように、語り手の「私」は、夢を介して複数の声を持つ。
 ただひたすら行軍する私。
「クソジジイ」となり、「私と同じ連隊に所属していた、私の知らない人物の書いた回想録」に印刷された行軍する日本兵の写真な見入っている私。
 私を「先生」と呼ぶ緑川に行軍の様を語る私。
 妹の峯子が描いた『オデュッセウスの冥界訪問』と題された絵画を見ている私。
 過去と現在と未来が混濁した語りを成立させているのは、「夢の時間は伸縮自在」だからだ。そして、夢の語り手は私の過去、現在、未来だけでなく、行軍を続ける他の人間をも取り込んでいく。

菅沼の見た「河原の花見」の幻影は、私も見たし、また私のみならず、南西海岸の守備陣地にいた兵員の多数が見ました。同じ幻を複数の人間が見る。これは奇妙なことのようだけれど、案外そうでもない。幻視は伝染するものだ。知り合いの民俗学者から聞いたんだが、村人全員が夜毎に同じ夢を見る僻地の村があるらしい。そんな村には生まれたくないものだが、どちらにしても、狩られた獣よろしく閉所に押し込められた人間は同じ夢を見がちである。同床異夢ならぬ同床同夢というわけだ。誰かが河原で花見をする人々を見たといい出し、とても懐かしい光景だったと語るや、一同の者は熱心にこれに耳を傾け、すると今度は別の者が、それなら自分も見たと報告しはじめ、さらにまた別の者がという 具合で、やがては全員がひとつの幻を共有するに至ったのだった。
 むろん私だって作家の端くれだ。素人が注目を浴びるのを尻目に、黙って聞き手に甘んじるなんてプライドが許さない。ええ、語りましたとも。お題は「河原の花見」。学校時代一度だけ見物した吉野の桜を、万葉調古今調とり混ぜて活写しつつ、長屋の花見の庶民的センスを加味して語りました。誰もが、我が言の葉に聞き惚れて、あたかも魂がふわふ わと躰から抜け出し、花の里へ漂い行くようだと感嘆しましたね。まあ、私は玄人だから、そこらの素人と較べられてもね。あまり自慢にはなりません。

同上書、189-190頁


 私の夢は他人の夢と混ざり、私の語りは複数の声となっていく。繰り返し登場する「河原の桜」は、もはや誰がいつ見たものなのかはよく分からない。引用文中にもあるけれど、そもそも私は「作家の端くれ」で「玄人」なので、その語りに虚構性が含まれていることも示唆させれている。物語の、あるいは主人公の視点や声だけではなく、複数の夢と虚構という仕掛けを使うことで、複数の視点や声が混じり合う。
 やがて、私の夢は、モーセに率いられてエジプトを脱出するユダヤ人たちにも、燃料気化爆弾が降り注ぐイラクにも拡がっていく。複数の歴史が語られ、行軍は最後まで終わることなく、物語は閉じられる。

 ちなみに、行軍を続ける者たちが共同夢を見ることの端緒となった菅沼は、「石の来歴」で主人公の真名瀬に石に刻まれた地球の歴史を語ってみせた上等兵と同じ話をしてみせる。二作を一冊にまとまめた文庫版で、この作品を読んだ読者は、ここではさらにまた別の多声性が物語に入り込むように感じるだろう。その声とは著者である奥泉光だ。
「浪漫的な行軍の記録」は「石の来歴」の書き直しだと、巻末の「著者から読者へ」にはある。菅沼の登場に、あらかじめ二作を一冊にまとめることまで意図して書かれたのではないかと思えてしまう。気に入らないところがあったから、ちょっと書き直してみましたみたいな、分かりやすいことをこの作家がするとも思えないものだから。

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