「語りを多声化すること」。そのために、この小説では、「夢」という仕掛けが用意されている。それは冒頭の一文から始まっている。
冒頭の一文について。加藤と奥泉は、大岡昇平の『レイテ戦記』の書き出しに言及している。その書き出しはこうだ。「比島派遣第十四軍隷下の第十六師団が、レイテ島進出の命令に接したのは、昭和十九年四月五日であった」。加藤は、大岡が訳したスタンダール『パルム僧院』の出だしと呼応していることを指摘し、「レイテ島」を叙事詩として描こうというある種の意思表示ではないかと指摘する。なるほど、冒頭の一文はやっぱり大事なのか。そんなことを考えながら、「浪漫的な行軍の記録」を読んでみる。
これは単に行軍の辛さを言っているだけのようでもあるけれど、読み進めていくと、歩きながら眠る=歩きながら夢を見るということだとわかってくる。
そして、歩きながら見る夢を介して、「私」の語りは一気に戦後に飛んだりもする。
このように、語り手の「私」は、夢を介して複数の声を持つ。
ただひたすら行軍する私。
「クソジジイ」となり、「私と同じ連隊に所属していた、私の知らない人物の書いた回想録」に印刷された行軍する日本兵の写真な見入っている私。
私を「先生」と呼ぶ緑川に行軍の様を語る私。
妹の峯子が描いた『オデュッセウスの冥界訪問』と題された絵画を見ている私。
過去と現在と未来が混濁した語りを成立させているのは、「夢の時間は伸縮自在」だからだ。そして、夢の語り手は私の過去、現在、未来だけでなく、行軍を続ける他の人間をも取り込んでいく。
私の夢は他人の夢と混ざり、私の語りは複数の声となっていく。繰り返し登場する「河原の桜」は、もはや誰がいつ見たものなのかはよく分からない。引用文中にもあるけれど、そもそも私は「作家の端くれ」で「玄人」なので、その語りに虚構性が含まれていることも示唆させれている。物語の、あるいは主人公の視点や声だけではなく、複数の夢と虚構という仕掛けを使うことで、複数の視点や声が混じり合う。
やがて、私の夢は、モーセに率いられてエジプトを脱出するユダヤ人たちにも、燃料気化爆弾が降り注ぐイラクにも拡がっていく。複数の歴史が語られ、行軍は最後まで終わることなく、物語は閉じられる。
ちなみに、行軍を続ける者たちが共同夢を見ることの端緒となった菅沼は、「石の来歴」で主人公の真名瀬に石に刻まれた地球の歴史を語ってみせた上等兵と同じ話をしてみせる。二作を一冊にまとまめた文庫版で、この作品を読んだ読者は、ここではさらにまた別の多声性が物語に入り込むように感じるだろう。その声とは著者である奥泉光だ。
「浪漫的な行軍の記録」は「石の来歴」の書き直しだと、巻末の「著者から読者へ」にはある。菅沼の登場に、あらかじめ二作を一冊にまとめることまで意図して書かれたのではないかと思えてしまう。気に入らないところがあったから、ちょっと書き直してみましたみたいな、分かりやすいことをこの作家がするとも思えないものだから。