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そんな日もある

生きている者は生きていることしか語らない。死んだ者は帰ってこない。


生きていることしか語っていなかった生者もやがて死者になっていく。そして、彼らの言葉だけが残される。死んだ者たちの言葉。かつて生きていた者たちの言葉。当たり前のことなのかもしれないけれど、本を読むことは死者たちの言葉、やがて死者となる者たちの言葉を読むことなのかもしれない。そんなことを考える。

冒頭の、「生きている者は生きていることしか語らない」と言ったのは埴谷雄高だった(と思う)。読んだのは中学生の頃だし、その本はもう手元にないので確認はできない。そして、元々の文脈だと、「しか」というところに否定的なニュアンスがあったはずだ。「死んだ者」は戦死者のことで、「生きている者」は戦争を生き延びた者を指していたような気がする。でも、そんなことは今はどうでもよくて、なぜ急にこのフレーズを思い出したかと言えば、昨年末から「最近死んだ者」たちの本ばかり読んでいるからだろう。

宮沢章夫『時間のかかる読書』、森崎和江『からゆきさん』、橋本治『ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかの殺人事件』。素晴らしい書き手の死が報じられ、それをきっかけに書店に本が並び、どんなものかと手に取って読む。「まんまと」と言ってもいいのかもしれない。でもこういうきっかけでもないと、もう紙では読めないかもしれないから…とか言い訳を用意して、ページを捲る。

「…機械文明の時代には機械そのものに動物的なカンを働かせることのできる種族が出現するんだね」

166頁

上野で湘南新宿ラインに乗り換えて、『万延元年のフットボール』を読んでいたら、こんな台詞に出くわす。機械とは古いシトロエンのことで、「動物的なカン」を運転のために働かせることができる若者がいた時代があった。そんな時代の空気が、この小説には閉じ込められている。

2023年4月1日。機械文明なんて言葉はもう死んでいて、ChatGPTが大流行の兆しをみせている。

『万延元年』は学生のころ読んだはずだけど、その内容はほとんど覚えていない。中村則文は学生時代に大江健三郎を読もうとしたら、講談社文芸文庫が高すぎてツラかったというようなことをどこかに書いていたが、当時のわたしもやはりお金がなかった。だから、わたしが持っている『万延元年』は古本で買ったものだ。文庫本の天地はすっかり茶色く変色している。20年前、この本を読んで、わたしは何を思ったのだろう。

谷間の村で暴動が起きる前に平塚に着いた。

スタジアムまで歩く道すがら、まだ散り切っていない桜を見かける。

湘南4-1 G大阪

町野が前半だけで4得点。相手キーパーは、昨年までいくつもの失点を防いでくれた谷だった。スタジアムではビールを3杯飲んだ。駅前で買った崎陽軒のシュウマイ弁当は900円に値上がりしていた。

1-4で負けた試合は昨シーズンもあったけど、その逆のスコアは僕がスタジアムに通うようになって初めてかもしれない。

帰りの東海道線で加藤典洋の解説を読む。彼もまた「最近死んだ者」のひとりだ。個人的な思い出から始まる解説文が彼らしい。

その時ぼくの眼にすることになったのは、『日常生活の冒険』。高校二年の第一学期の、 たしか「中間試験」をまぢかに控えた時期のことだった。熱にうかされたように夢中になって、家にある「文学界」のバックナンバーを探しだし(全巻が揃っているわけではなかったから)、途中から、断続的に、やはり途中まで読んでいった。ぼくがいまでも印象深く記憶しているのは、女主人公の一人が裸で部屋を横切る、そこのところが、彼女は恥毛を葡萄の房のように抱えて、たしかそのように形容されている個所である……。
「中間試験」が終ると、ぼくは年少の友人とその地方都市の書店をくまなく探し歩き、ことによったら、という期待の通りに単行本として上梓されたばかりのこの本を手に入れることができた。それから一ヵ月くらいの間に、手に入る大江の本はあらかた読みつくし、 たしか夏休みの終り近く、新しく書き下しで発表された「個人的な体験」を読んで、回復不可能なほどの衝撃をこの小説から受けとることになる……。一言でいえば、ぼくは日本の現代小説がこんなにも面白い、こんなにも心を揺さぶる現代的な小説が日本語で書かれうる、ということに、大江の小説をつうじて気づかされ、大江の小説に触れてから三ヵ月後には、地方都市在住の熱狂的な大江ファンが一人出来上っていたのである。

459頁

不揃いとはいえ、なぜ「文学界」のバックナンバーが家にあったのか?ということはここには書かれていない。けれど、先月文庫になったばかりの『大きな字で書くこと』を読んだので、その理由をわたしは知っている。だから何?と言われたらそれまでのことだけど、こういう時に何か大きな円環のようなものと自分が繋がっているような感覚になる。

そんな日もある。

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