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今、デッチアゲただけ(田中小実昌『ポロポロ』)

 これは戦争の語りに対する根本的な批評ですね。戦争体験というものは膨大で、さまざまあるんだけれど、しかしそれは結局、語られなければ存在できない。しかし語ること自体が、ある一定の型を持たざるをえないものだということの指摘なんです。極端にいえば、 型にはまったことしか人は言えないのだと。そこからはみ出る実感とか感覚といったものは語り得ない可能性がある。
いま引用したのは、『ポロポロ』に収録されている「北川はぼくに」という短編からなのですが、八月一五日に北川という同年兵が、夜、歩哨に立っているときに初年兵を撃ち 殺してしまった。その体験を北川から聞いた「ぼく」は、「八月十五日」に強い意味を持たせたくなってしまう。そこを軸に物語を作りたくなっちゃうんだけど、そんな意味などは一切なかったんだ、ということをただただ書いている小説なんです。 『ポロポロ』は全体にそうなんで、要するに人は物語を作りたくなるのだけれど、自分はなるべくそれをしないのだと。

奥泉光、加藤陽子『この国の戦争 太平洋戦争をどう読むか』(河出新書、215-216頁)

「人は物語を作りたくなる」ーー。
『ポロポロ』の最後に収められている「大尾のこと」の中に、南京で見た映画の話が出てくる。米軍が見ているところにもぐりこんで見たというその映画は「ストーリィもよくわからなかった」とことわりを入れたうえで、こんな感じで紹介される。

そのうち、縮小人間と殺人を命ずる中年のオバさんとのあいだに葛藤がおき、それには、縮小人間の恋みたいなものもからまっていたかどうか、いつも、中年のオバさんの命令にしたがっていた縮小人間が、最後には反抗し、オバさんを刺し殺す。そして、自分も今までは、オバさんが猫を追っぱらってくれてたからよかったが、そのオバさんがたおれて死んだので、縮小人間も猫におそわれ、死んでいく……なんてストーリィではなかったかとおもう。記憶をたどって、そうおもうのではなく、今、デッチアゲたわけ だけど、ま、そんなところだろう。

『ポロポロ』(河出文庫、210頁)

 大尾という同期兵との出会いから、その死について話している途中で、この映画の内容が唐突に挿入される。たぶん、意味はない。「よくわからなかった」と最初にことわっているのだから、この内容が正しいかどうかなんて、たぶん、どうでもいいことなのだろう。
 大事なのは、「今、デッチアゲた」ということだ。「今」というのは、「大尾のこと」という短編を書いているまさにその時ということなのだろう。加藤が言うところの自分で自分の記憶を作ってしまうことへの抵抗感が分かりやすく出ている箇所だ。
 引用にもあった「北川はぼくに」(「大尾のこと」よりも収録順としては前)のエピソードも引き合いに出しつつ、さらにこう続く。

おなじ中隊の初年兵仲間の北川が、八月十五日の終戦の夜、 敗残兵みたいなどこかの初年兵が(もちろん、北川は日本兵だとはおもわなかった)、北川の分哨にむかってふらふらあるいてきてるのを、停止の注意をきかないので、北川は発砲し、その弾丸があたって、その初年兵は死んでしまったのだが、北川が、おそらくひとにははなさなかったそのことを、ぼくにはなしてくれたことが、すべてだったのに、ぼくは、それを北川がはなした内容にし、つまり物語にしてしまった。

それとおなじように、ぼくは、大尾を物語にした。また、くりかえすが、大尾は大尾だ。その大尾を物語にすると、大尾は消えてしまう。あるいは、似て非なるものになる。 ほんとの大尾が消える、などとも言うまい。ほんと、なんて言葉もまぎらわしい。戦争の悲劇とか、戦争の被害者だとか、そんな言葉は、ぼくはつかったことはないが、そういう言葉をつかうのとおなじことを、ぼくはしゃべってきた。

あの大尾が、あんなふうに死んだ、ひどいもんだ・・・・・・ぼくは、自分でかってにつくった、それこそひどい物語を、ひどがっている。

大尾について、はじめと、おわりのある物語を、自分でかってにつくって、あたかも、それが大尾自身だ、とぼくはおもっていた。ひとのはじめとおわりに関与するなど、神のすることではないか。

同上書、218頁

 物語に過剰な意味を持たせたくないとどれだけ思っても、小説は物語になってしまう。はじめとおわりがある。主人公がいて、会話や行動がある。
『ポロポロ』で言えば、語り手は常に「ぼく」だ。そして、「ぼく」の記憶は常に曖昧だ。まるで、中年のオバさんと縮小人間の映画のように。本当はどうだったのかは「よくわからない」し、「今、デッチアゲた」だけかもしれない。
 わからない、おぼえていない、そうではないかもしれない、そんな述懐が何度も繰り返される。そう繰り返すことで、戦争という大きな物語に抵抗しているかのようにも読める。

しかし、「経験とはなにか?」ときかれると、またまた、ぼくにはわからない。ぼく自身でもわからないことをしゃべれば、それを、相手がどんなふうにとるかは、もちろ ん、まったく見当もつかない。ぼく自身にわからないことが、相手にわかるわけがないではないか・・・・というのは、じつは理屈であって、実際は、今、言ったみたいに、わかりやすいようなふうになったりする。こっちも、わからない言葉をつかい、理屈では、 そんな言葉が、相手にわかるわけがないんだけど、こっちも、わからないでつかってる言葉だから、かえって、相手もわからないなりに、わかった気になる。わからないどうし、物語で通用してる言葉だからだ。

同上書、184頁

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