見出し画像

過去を振り返って(幼少期)

私は2歳の頃に自閉症と診断を受けていたらしい。
記憶にないが、知ったことで今の自分がそうであるとわかる。

幼稚園入る前か、長崎県の小さな町佐々町という町で過ごしていた。

長崎県佐々町

この記憶は曖昧で覚えがまだわからないことがある。
母親が言うには、3歳の頃は乗り物が好きだったらしい。バスや車が特に好きだったらしい。
今の自分は車は現在所持していないが、バスや電車はのんびり乗って景色を眺めるのがいい。

小学生になる前の記憶は少し覚えている。
学校の近くにある川沿にある公園(ポットホール公園)で遊んでもらえた。

ポットホール公園
ポットホール公園 | 観光スポット | 【公式】長崎観光/旅行ポータルサイト ながさき旅ネット

たまにこの記憶を蘇ると涙することもある。
この時母は専業主婦だったので、時間はあったのだろう。
小学生になって母もパートに勤めるようになる。

当時通ってた吉井小学校

小学生の頃は特別支援学級に入って授業を受けることになる。
この時は不思議だったのだ、なぜ自分は他の人と違うのかと。
特別支援学級はダウン症の人や発達障害の人がいて、自分もそうだから。当時は自分のことが全くわかっていなかった。
正しく物事を捉えることもできず、自分家の電話番号や住所も理解や覚えができなかった。

昼休みになると(仲間に入れて)と遊びに入れてもらう日々だった。しかし足は早くないし運動神経も良くない、体型もよくなかったので容易く受け入れてもらえることは少なくなかったし、チーム決めはハズレ要員。

小学生の頃最も辛かったのが、4年生の時である。
同じクラスの人がイジメてきたり、殴られて、馬鹿にされて、それにイライラし物にあたることが多かった。
今でも物にあたることがある。
自分はちゃんとしているのに、注意を受けたり、すぐ泣くことから異常扱いされたりしてきた。
もちろん勉強の点数は低い。親からもしっかりしなさい、我慢しなさい、みっともないと言われてきた。
その頃からはあまり褒めてもらえない日々、両親との喧嘩で自分は学校の出来事に腹が立ち教科書を破いたこともあったし、ランドセルや教科書を投げつけられたこともあった。

そして他人が羨ましいことが多かった。当時はカードゲームが流行って自分より良いカード持っていたり、ゲームの会話をしていることが羨ましいかった。

そしてお年玉がいくらもらったかで話は盛り上がる。自分は親戚合わせると2万円くらい。しかし同じクラスの人は3万だの5万だのすごかった。
自分は小学生の頃からお金に恵まれないと思った。もちろん両親は働いてくれているが、そんな理屈は通用しない、今思う。

小学生後半になると自分の名前がダサく恥ずかしくなる。
物心を覚えるのに遅い方だが、自分の名前は幸平である。しかし幸せになったこともないし自分自身平和に満ちたこともない。
両親がなぜこの名前をつけたのかがわからない、ただ単純に適当の付けたのかもしれない。
他人の名前がカッコよく羨ましかった。
真樹、恭介、裕太、晃平、彰吾とか。他人の名前が羨ましかったし自分の名前が恥ずかしくて好きではなかった。

小学5年の頃に親や先生に普通の学級に戻してくれとお願いした。
なぜ自分はここなんだ?理由は当時人より運動神経が悪い、勉強ができないそれだけだと思っていた。
自分が障害者で精神と肉体の異常者だと親や先生は教えてくれなかった。
自分がそれを理解するくらい物心ついているとおもわなかったからか?わからない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?