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岡山と桃太郎伝説  吉備の鬼神と吉備津彦 2024.2月無料版

節分が「鬼」を追う行事として我々の生活に馴染み、日本全国津々浦々まで浸透している。
 この岡山でももちろん行われているが、この地と「鬼」とは非常に深い縁がある。
 「鬼」を追う行事を、鬼退治とした時、岡山の人々であれば特に脳裏には昔話として桃太郎が浮かぶ事だろう。
 この桃太郎の発祥の地と主張する岡山には、元になるとされる吉備津彦と温羅の伝説がある。
 桃太郎が吉備津彦、「鬼」が温羅とし、昔は吉備の国と言っていたこの地で悪さをする温羅が吉備津彦に懲らしめられるという伝説である。
 さて、ここでいう温羅なるものは「鬼」であると結び付けれられるが、「温羅」とは何者なのであろうか。
 そもそも、「温羅」という名の者が文献に現れるのは享保十年以前に編纂された「備中一品吉備津彦明神縁起」および「吉備津宮縁起」なのだが、ここで「温羅」は「鬼」ではない。
 さらに、この伝説の原型は室町にはあったと言われているのだが、そこまで遡っても、「温羅」は「鬼」ではないのである。
 「鬼」とは、その「温羅」と呼ばれる者の配下なのだ。
 現代にまで物語化が進むにつれ、「鬼」と「温羅」の同一化が進んでいったと思われる。
 では、そもそも「温羅」とは何か。
 「温羅」とは、古代吉備王国の王であった者だろう。
 ただし、古代吉備王国の王に、「温羅」なるものが存在した事実は恐らくない。
 古代吉備王国が栄えていた時代は、これら縁起が記されるよりもずっと昔、大和朝廷黎明期に遡るからだ。
 大和朝廷黎明期、吉備王国は瀬戸内航路を押さえ、中国大陸から齎される交易品を手にし、さらに鉄などの鋳物を可能とする技能集団がいた。
 今の広島県尾道辺りから、兵庫県加古川の辺りの山陽側は全て吉備王国であった。
 そもそも、吉備を含む3カ国で大和朝廷を創設したという説もあるのだが、ここでは「伝説」に焦点をあてていきたい。
 ここで「古事記」「日本書紀」に記されている大和朝廷にまつろわぬ国がどうなっていったのかが関わってくるのだが、上記に上げた縁起は神道的要素が強く、朝廷という戦勝者側の立場で書かれているというのが記紀と同じである。
 では逆に敗者側とでも言おうか、そちらは「巌屋鬼城記」「鬼ノ城縁起」などがあり民間系縁起とも言えるもので、「吉備津の窯」の物語性はこちらに表れている。
 どちらにも言えるのは、吉備津彦(大和朝廷)が勝ち、温羅(吉備国)が負けることである。
 英雄は吉備津彦という桃太郎となり、悪は温羅という鬼となった、という事である。
 ここで、今一つ踏み込んで考えてみる。
 吉備津彦は、大和にある、今の奈良県に位置する国の者であるのに、なぜ冠する名前が「吉備津彦」なのかである。
 これは、神道系に見られる記述であるが、元の名をイセサリノミコトといい、これが吉備国を平定した折に、その地の名である「吉備」を譲られた、即ち国譲りの話として伝えられているからと言えるのだ。
 勝者から見れば国譲りという体をとれるが、敗者からすればその後何年も続く怨嗟の始まりでしかないという事が、民間系縁起からは伺える。
 イサセリノミコトに敗れた温羅は、首だけになりながら怨嗟の声絶えず、土中に埋めるもその甲斐なく、十二年が経ち、温羅自らが自身の妻を巫女と指名し、窯で占うよう指示をして初めて怨嗟の止む時が来るのである。
 しかし、今も吉備津の窯として備中吉備津神社にその伝説の形を現在まで留めている事は、なお続く吉備の王による存在の主張があるように見える。
 それは大和朝廷の英雄ではなく、吉備の地にいた王であると同時に、巫女を従えた神、もしくは鬼神としての存在であるとの主張である。
 さて、岡山の足守に鬼の城という遺跡がある。
 ここは白村江の戦いに敗れた大和朝廷が作った防衛の為の場所とも伝えられ、または温羅の居城でもあったかのように伝えられている。
 記紀や神道系縁起、民間系縁起にしろ、古代吉備の中心地は特に鬼の城ではないので、ここに白村江以前に何かしらの建造物があったとしても、そう重要では無かったのではないだろうか。
 とはいえ、児島半島までを見渡す景勝地には違いなく、また、防衛の為の見張り台としての機能は十分に果たせるだろう。
古代吉備の権力がどこへ集中してあったかは、広い国であったので分散していたと思われ、それは古墳の分布を見ても分かるのである。
 岡山は日本全国で見ても古墳は大きく、多い。
 また出土品も当時の有力者でなければ持っていないようなものが出て来たりと、個性的な古墳群である。
 その一つに、榊山古墳とも千足古墳とも言われているが、その出土品に馬形帯鉤がある。
 これは中国大陸でも騎馬民族がつけるようなベルトのバックルであるが、おそらく朝鮮半島との交易品か戦利品として吉備国にも流入してきたものであろう。
 この出土品は足守川流域の古墳群からであるが、その他にも、旭川流域の湊茶臼山古墳、牛窓の波歌山古墳と比較的海に近い場所の古墳、古代の山陽道を通る花光寺古墳、両宮山古墳などというように、交易で栄えた痕跡がそこかしこから伺えるのだ。
 また、吉備独特の出土品もある事から、大和朝廷からやってくる古墳作りを単純に真似たものでは無いことがわかるのである。

 かように、古代の吉備国が強大な力を誇っていた事は疑いようのない事実ではあるが、運悪くそれは潰えた。
 大和朝廷に反旗を翻す事も記紀に記されている通りであるが、また、朝廷との和合も成してきた地でもある。
 古代吉備国の鬼神は、桃太郎伝説というような単純な勧善懲悪の物語の中で生きる事を良しとせず、こうして人々の口に上る度にその雄偉なる姿を現すのだ。

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