生成AIについて
こんにちは葦原です。
生成AIというジャンル?コンテンツ?、、、知っていますでしょうか。
おそらく、近年の各方面で話題を席巻しているので、多くの人が知っているだろうと思います。
私はクリエイターを名乗れるほど自分の創作や内面に向き合っているとはいえませんが(なので私の創作は弱い)、曲がりなりにも一次創作のイラストと小説を描いたり書いたりもしているので、人並み程度には、創作におけるAIのあり方に興味をもっているつもりです。
私は今のところは生成AIを創作に利用したことはありません。
遊びで、また後学のために一応知っておいたほうがいいだろうと思い、ChatGPTや画像生成AIに触れたことはあるのですが、いかんせん無料で使用できる範囲内だったので、自分のほしい画像はうまく生成できませんでした。でも普通に楽しかったです。
ただ、創作活動という観点で言えば、私はかなり生成AIには否定的です。
創作は、自分の内側から出てきたものを表出するもので、その手法も、自分自身が培ってきた、センスや技術に依っているべきだと思っていました。
もちろん、ここでいう「自分自身の内側」が、既に様々な作品の影響を受けているという意見はもちろん正しいと思うのですが、やはり、それらのエッセンスを統合して、新しいオリジナリティを生み出すのは創作者自身であり、その表現のスキルも創作者自身の手に依るべきだと思います。
生成AIに利用されているデータについての著作権の問題というのは、まだ明確な線引がされていない段階ですし、やはり、どうしてもあの行為は他人の積み上げたスキルやセンスを盗用しているように思えてならないのです。
AIに対して下す指示(プロンプト)を考えているのは利用者ではありますが、その結果できた創作物が果たして生成AIの利用者の創作物といえるのか。
書いている、描いているのは利用者でなくAIなのです。
と、思っていたのですが、ここ最近はもう少し視野が広がってきたように思います。
というのも、yanagamiyukiというボカロ音楽を作っているアーティストさんがいて、ここ最近ハマって色々聴いているのですが、その中の「おえかきジュモナー」という楽曲を聴いてから、生成AIに対して、創作者として、また消費者としての両方の視点から再考しようと思いました。
すごくいい曲なので皆聴いたほうがいいと思います。
この歌詞とイラストをみる限り、画面に写っている歪な生き物の主観視点で歌われている用に思います。髪型とか、どことなくボーカルの可不に見えなくもないですね。
私達人間、むごいプロンプターたちの興味本位で生まれた、出来損ないの生き物。
造形で自動的に美醜が決められて、「可愛くないもう捨てた。」という一瞥の後、その他多くの出来損ないとともに廃棄される。
生成AIを利用したクリエイター、そうでないクリエイター、それらの創作物の消費者、どれでもない、生成された存在による歌というのはすごく新鮮な視点でした。
この記事の見出し画像は無料の生成AIサービスを使い、昔私が考えたキャラクターを再現してみたものです。この際、今の画像にたどり着くまでに4、5回やり直しを重ねました。生成し直すことに対してこれと言った感慨は湧かなかったのですが、却下した画像たちは「おえかきジュモナー」を歌う生き物と同じ状態だったのかも知れません。
そう思うとなんだか心苦しくなってきたような。
もちろん、自分の手でイラストを描くときも、一発描きをしない限りは、目的とする完成形に近づけるため、何本も線を重ねてそこから一本を絞っていきます。しかし、生成AIの場合、描かれなかった可能性も完成品として形になって現れるのでより「切り捨てる」という感覚が強いのかも知れません。
今回は、生成したい画像の明確なヴィジョンがあったので、それにどれくらい近いかで決めてきましたが、生成AIを用いてSNSなどで活動する場合は、ヴィジュアル面での美醜が価値判断の基準になります。
その場合、美醜の基準は大衆へのウケの良さになるのでしょう。
おそらく、ここに私が生成AIに抱く反感の原因があります。
何をもってよりよい創作物とするか。
これに明確な解答を得るほど自分は創作を追求していないですが、少なくとも、内面に抱えたものを表出することが、創作物をそれたらしめる最低条件という意識を持っているのだと思います。
ゆえに、自分の肉体・センスに依らない表現技法、ひいては他者の積み上げたスキルの盗用とも言える方法を用いる生成AIのアーティストの存在が、どうしても受け入れ難い。
と思っていたのですが、その「より良い作品」の価値基準、すなわち、美醜の判断はすごく難しい問題だと思います。
止まらない技術の進歩により、AIの画像学習は進み、内面から出た創作物かどうかを判断するのは非常に困難になっています。
昨今のイラスト界隈を見ても、かなり注視しないとAIのイラストだと分からないような高度な画像が増えてきています。
この傾向の進歩がこのまま続いていけば、いつか私達では人の創作物かAIの創作物か判断ができなくなる日が来るかも知れません。
そうなったとき、自分自身の手で内面を表出することが創作の価値なのだ、というスタンスを、果たして私は保持できるでしょうか。
創作はそうあって欲しいという意志はきっと変わらないですが、人の手による創作とAIを用いた創作を区別できないのに、人の手による創作の価値を信じ続けるのはなんだか矛盾している気がするのです。
自分には知覚できない美しさを称えることはできないはずですから。
さらに、生成AIによるアートは、芸術の新しい価値観として今後メジャーになっていくことも大いに考えられます。
例えば、私達が普段目にするイラストや漫画は、その多くがデジタルツールを用いて描かれています。もちろんアナログ画家、漫画家もいますが、今はデジタルが主流です。
私は生まれたときからデジタル描画のイラストに触れてきていたのでその状況にあまり抵抗感はありません。しかし、デジタルイラストの台頭以前から、ずっとアナログで一途なイラストや漫画を制作してきた世代の方々にとっては、現在のデジタル主流の創作には反感があってもおかしくはないです。
同じように、「初音ミク」を始めとする合成音声に依る音楽は、私の世代では物心ついた頃から存在するもので、私自身ボーカロイド文化に強く影響を受けています。しかし、肉声の歌声による表現をずっと追求してきた方々にとって、ボカロは一体どう映ったのでしょうか。
現在の生成AIを巡る現状も、創作のあり方が変わる過渡期に過ぎず、私はその流れから取り残されているだけのようにも思えます。
結局、私にとっての創作の価値の拠り所は何なのか、また、それは今後目まぐるしく進歩していく世界にも通用しうる強度を持つのか、今後も追求しながら生きていくしか無いのだと思います。
そう言えば、yanagamiyukiさんが、「おえかきジュモナー」を公開するにあたって、作品についての想いを書いてくださっている文章をみつけたので一読をおすすめします。
この記事は創作大賞のエッセイ部門にとりあえずぶち込んでみようかなと思い制作したものです。正直なにかに引っかかることを期待して書いているわけではありませんが、yanagamiyukiさんの曲の力を借りて賞レースに参加していると言っても過言ではない状況です。
果たして、生成AIの行う他者のスキルやセンスの盗用とこれは何が違うのでしょうか。
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