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「一陽」・・・疲れた時に

生活をするということはずっと
「山あれば谷あり」
の連続だと思います。

なぜ、山を登ったり
谷を降りたり人にできるのは
そに人の「帰る場所」があるからだと思います。
土井善晴さんのいう「心の拠り所」と言っても
差し支えないと思います。

私にとって
その心の拠り所は
今の所「一汁一菜」という食の型です。
「本」という存在です。
noteという書く場所です。

毎日、いろんなことがあります。
嬉しいこと、意に沿わないこと。
毀誉褒貶(きよほうへん)は
世の習い・・・だと思います。

福沢諭吉のように
どのようなことにも
「喜怒色に顕わさず」の精神で
毎日を過ごしたいものだとも
思ってしまいます。

でもそれもなかなか難しいです。

ホッとすると
また次の山が見えてきます。
正直、「もう良いや」と思っても
先に進むには
目の前の山を登らないといけないのです。

階段には必ず「踊り場」があります。
これは、本当に「踊る場所」ではなく
「一休みの場所」(空間の踊り;遊びの部分)として
機能します。(設けられています)

ここで休まないと
最上階まで階段を登ることが
難しいく危なくなってしまうからです。

ですから
この社会を生きてゆくには
「帰る場所」が必要となってくると思います。
船で例えればアンカー(錨)の役目です。

私たちは
「休むべき時、場所」で
本当に休んでいるでしょうか?

無理をして
階段を上り詰めたり
山に闇雲に山に挑もうとしてはいないでしょうか?

社会は
今、急激なスピードで
進んでいます。
私は正直に日々、そのスピードに
ついてゆけません。
スマートフォンのアプリの
アップデートのように
簡単に自分をアップデートすることは
とても難しいかもしれません。

よく
私は夜一人、シーンとした部屋の中にいると
気分が緊張してしまいます。
小さい頃の家庭環境がフラッシュバックして来るのです。
特に忙しい時や
そのストレスに気づかずに
自分を見失いそうな時に
なりやすいです。

「井の中の蛙、大海を知らず。
されど海の深さを知る」
という言葉があります。

確かに「万有引力」を発見した
ニュートンでさえ
「私たちは海の砂浜で遊んでいるようなものだ」
(まだまだ人が知らないものがある)
と言いました。

今の私たちは
明日に「希望」を見出せないほどに
暗い時代にいるのかもしれません。

それでも
「望み」は捨てないでいたいです。
それは、「海」の全てはわからなくても
「生きている海」の中の
「深さ」や「意味」を知ることができるからです。
それは生活する上で
「帰る場所」でもあり「踊り場」でもあります。


疲れたら
休んでも良いのです・・・。

何も生きている意味なんて
知らなくても良いと思います。
今日1日を過ごしましょう!!

どうか 素敵な1日になりますように・・・。

おわり

i_am_i_am_iさん素敵な
フォトありがとうございます。

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