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認められない信仰

半年前から通い始めた教会の牧師とLINE上でキリスト論争になった。

イエスは神の子であり神ではない信仰を持っていることを、牧師には伝えていた。
「そういう考えも分かります」と言う言葉を期待したのだが、牧師は「重要な事柄なので、引くことはできません」と言い、互いの考えを主張し合う展開となった。

この教会に通い始める前から、キリスト教の教会とは、そういうものだと覚悟はしていたが、もしかしたら信仰を共有できるのではという淡い期待を持っていたが、残念な結果となった。

長年、無教会のクリスチャンであったので、自分の信仰は無教会でも保てるのだが、妻はどうだろう。子たちの信仰はどうするか。こういう思いもあり、建物教会での礼拝習慣は、信仰維持の助けになることを期待していた。しかし、もはや三一神が信仰対象なら建物教会に深入りすることも無いか、と思えてきた。

牧師は当然、聖書を読んでいるのだろうが、聖書理解を神学に依存しているのだろう。神学のそれ自体が、偶像となっているのではと思うところがあった。自らの感性で聖書を読んでいるのだろうか。神学は参考にするが、鵜呑みにするものではない。

ニケア信条やカルケドン信条の三一神は、神学による創出でギリシア神話やヒンドゥー教が由来であろう。父子聖霊おのおのが神で一体との神観は、私には無い。死ぬ神や現人神(あらひとがみ)とか1+1+1=1など、聖書にはないものだ。

聖書は、人のために書かれたもので、人が理解できるものだ。三一神が真理であるなら、そう書かれてあるはずではないか。
「神の言葉」であるイエスが、「神とは」を言語化したものが聖書であろう。なぜイエスの言葉を、そのまま受け取らないのか。

聖書には明確に、神は唯一であり、イエスは神の子と書いてある。イエスは神の子であって、神ではない。ましてや三つが一つの神などではない。神がイエスを愛する子と言い、イエスは神を父と言ったのだ。

当面は、我が家を教会とし学びを続けるつもりだ。子たちには、神様に守られる人生を歩んで欲しいと切に願う。

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