「完璧じゃなくていい」という「心の完璧なあり方」を私は求めている

友人との会話にて。
「ここのやり方、間違えちゃったんだよね…」 
「でも、細かいところだし、気にしなくていいんじゃない? 完璧を求めると苦しくなるよ。」
「そうだよね…完璧を求めないようにしないとな…」

よく耳にする言葉「完璧主義をやめよう」。確かに、完璧主義をやめられたなら、心の負荷は取り除けるだろう。小さなミスでいちいち心が動揺していたら、人生、息切れてしまう。

本やSNSの言葉に触発され、「完璧主義をやめよう」という思考をインストールすると、その時には自分は「完璧主義」から抜け出せた気になる。
でも、実際に些細なミスに出くわすとインストールしたはずの「脱完璧主義」の思考が起動しないのだ。その代わりにアンインストールしたはずの「完璧主義」の思考が起動する。
反射的に私の心が些細なミスでも反応してしまうのだ。
やがて、時間が経つと私の脳内は再起動を図る。
そして、ようやく「完璧主義」思考から「脱完璧主義」の思考に変わる。
でも、その時に私の内側で起きているのは「いちいち気にしていたら良くない。完璧な状態を求めない心の状態が良い。それが、心の完璧な在り方だ」というように、姿を変えて「完璧主義」な私が顔を出す。
いわば、「脱完璧主義」を目指そうとして、「行動に対する完璧さ」から意識を逸らそうとするほど、今度は「心の在り方に対する完璧さ」に意識が向いてしまう。
「完璧主義から逃れられるのが、私の完璧な姿である。」こんな矛盾が、私の脳内で作動するのだ。

「完璧」って何なのか。
辞書で調べると、“まったく欠点がないこと”と、書かれてある。

小さなミスでも気にしてしまう私は、「小さなミス」が自分の欠点だと考え、ミスがないという行動が私の中での完璧であった。

一方、小さなミスを気にしてはならないと思った私は、「完璧を求める心の状態」が自分の欠点だと考え、脱完璧主義な思考ができることが私の中での完璧となった。

要は、自分の中で何を欠点だと感じるかが、変わったことで自分が求める完璧の定義が変わっただけなのだ。
「完璧主義」な私は変わっていない。

きっと、私に大切なのは自分が思い描く自分になれなくても、受け入れられる寛容さを持つことなのかもしれない。
何だかんだ小さなことでも気にしてしまう私。完璧さを求めしまう私。そんな自分とどう折り合いをつけていくか、自分の性質を変えようとするのではなく、受け入れる。一種の諦めが大切なのかもしれないと思ったこの頃。

追記:完璧主義な私を受け入れようとするも、何だかんだそんな性質が自分を生きにくくさせているなと感じることも多々あるので、「私は前世で罪でも犯したのかな」と考えることも。自分と仲良くするのって難しい。でも、それが人生なのかもな。

何だかんだ、長くなってしまいましたが、最後までお読みいただきありがとうございます☺️



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